乃木希典 入門

乃木希典の伝記。その生涯と評価について。

乃木希典について出典を明らかにしつつ書いています。

乃木希典の伝記:「乃木希典伝(全)

乃木希典の評価などに関する主な記事の一覧:「『乃木希典入門』について

磯田道史『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』

司馬遼太郎は,明治時代は透きとおった,格調の高い精神で支えられたリアリズムの時代だといいます。

磯田道史『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』は,司馬のいうリアリズムを解説して,社会的,公共的に大きな場面での現実主義世のため人のためのリアリズムであり(本書126頁),明治のリアリズムは,官や国家に対する宗教性をおびた信頼を背景に,お国のため,日本国家のために産業を興すという形で現れたといいます(本書130頁)。

そして,『坂の上の雲』を,司馬のリアリズムから読み解くとして,二人の人物を取り上げます。

秋山真之と,乃木希典です。

磯田の見立てでは,明治という時代を,司馬さんはこの秋山と乃木,二人の合成体としてとらえてこの不達のタイプの日本人がいて,明治という国家ができあがっている。それを見事に書き分けているのが,『坂の上の雲』だということです。

磯田は,秋山について,海外留学して研鑽し,非常に独創性のあるリアリズムを発揮し,「術力」概念をも生み出した合理的に戦力を考えるというリアリズムを備えた人と評価します(本書134頁~135頁)。

他方,乃木希典については,不合理なリアリズムの人とします(本書135頁)。

対する乃木は,自分は軍人だからといって,軍服を着たままベッドで寝続けるという不合理さをまとっていました。乃木の根底にあったのは,秋山と同じく格調高い公共性心ですが,その不合理なリアリズムでは戦争に勝てません。

まず,乃木は旅順で極めて合理的に戦いました。

合理的に主攻を選択し,望台を目指しました。

大本営から急かされてやむなく行った総攻撃が失敗すると,大本営の要請を無視して準備に時間をかける正攻法に転換しました。

新たな戦術も編み出しました。

そして,乃木は,旅順攻囲戦に勝ちました。

奉天会戦では,司令部に翻弄されながらも勝利に貢献しました。

司馬は小説を盛り上げるため,磯田は秋山真之との対比という自説を述べるため,乃木の合理性を無視しています。

203高地をはじめ旅順をめぐる攻防戦で,乃木は多くの将兵を死なせてしまいます。結果として日露戦争は日本の勝利に終わったため,乃木は「軍神」として伝説化するわけですが,「乃木凡将論」「乃木愚将論」もささやかれていました。それが決定的になったのは『坂の上の雲』によってでしょう。

乃木に十分な弾薬も情報も供給できなかったのは大本営です。攻撃を急かして失敗させたのも大本営です。司令部も旅順を軽視していました。乃木は,損害を出しながらも戦術を練り,旅順という近代要塞をを半年という短期間で落としました。第一次世界大戦における両陣営の将軍は,近代要塞を攻略できないこともしばしばでした。それににも関わらず,「損害が大きかった」ということを主たる根拠として乃木に責任を問い,旅順攻略の事実は無視してその功績を乃木に認めないのは,公平・公正なな評価とは言えません。

また,磯田は,司馬が乃木を「無能」と評した部分を引用して,次のように述べます。

ここには,司馬さん自身が体験した昭和陸軍につながる「暗部」に対する怒りと鋭い批判が込められています。司馬さんは乃木という,国民からはその「格調高く愚直な精神」を非常に愛された人物を通じて,明治のリアリズムの「暗」の部分を,しっかりと見つめているのです。

乃木は,旅順攻略中,大本営に対して常に弾薬の不足を訴えていました。
弾薬がないので,人間即ち「肉弾」で対応せよと述べたのは大本営でした。
乃木ではありません。
その乃木に「暗部」を見るのは,乃木をスケープゴートにすることにほかなりません。
乃木は,司馬の昭和陸軍に対する恨み・つらみ,そのとばっちりを受け続けています。

なお,道田は,以下のように述べて「フォロー」をしていますが,結局のところ,日露戦争において乃木(及び第三軍司令部)は無能だったという部分は認めているわけで,この一文は本書の客観性・公平性・公正性をなんら示すものではありません。

司馬さんは,乃木だけではなく,彼の下で作戦の指揮をとる幹部をまとめて「無能」と激しく非難します(もちろん,「司馬リテラシー」をもつ私たちは,この表現が日露戦争における役割という限定された意味であることを理解して読むべきです)。

大正天皇と乃木希典

乃木希典は,明治天皇に対して強い忠誠心をもっていました。

信仰ともいうべき強い畏敬の念も抱いていました。

明治天皇も乃木を信頼していました。

迪宮裕仁*1親王(後の昭和天皇)の養育のため学習院院長に就任させ,御製の和歌を贈りました。

乃木の死を聞いた迪宮は涙を浮かべ,
「ああ,残念なことである。」
とおっしゃって大きくため息をつかれたという話も伝わっています*2

乃木の薫陶を受けた昭和天皇も,後に乃木から大きな影響を受けたと語りました。

 

このように,明治天皇・迪宮(昭和天皇)と乃木との関わりについては様々なエピソードがあります。

 

これに対し,大正天皇と乃木とのエピソードは多くありません。

明治44年(1911年)11月19日,伊丹で行われた陸軍の演習を見学した明宮嘉仁*3親王大正天皇)に対して説明を行ったのは,乃木でした*4

しかし,この年は,半年に及ぶ欧州外遊の年として語られます。

大正天皇との特別なエピソードはありません。

明治天皇・迪宮(昭和天皇)との関わりがむしろ特別に濃密だったのでしょう。

 

ただ,大正天皇が乃木に対して無視を決め込んでいたわけではありません。

大正天皇は,大正2年,乃木に関する漢詩を2首詠んでいます。

乃木希典惜花詞有感*5

草長鶯啼日欲沈(草長び鶯啼いて 日沈まんと欲す)

芳櫻花下惜花深(芳桜花下 花を惜しむこと深し)

櫻花再發将軍死(桜花再び発いて 将軍死す)

詞裏長留千古心(詞裏長く留む 千古の心)

ここにいう「乃木希典惜花詞」とは,以下の和歌です。

色あせて梢にのこるそれならで散りし花こそ恋しかりけれ

もう一つの漢詩は,乃木の死について詠んだものです*6

憶陸軍大将乃木希典

滿腹誠忠世所知(満腹の誠忠 世の知る所)

武勲赫赫遠征時(武勲赫々たり 遠征の時)

夫妻一旦殉明主(夫妻 一旦 明主に殉じ)

四海流傳絶命詞(四海 流伝す 絶命の詞)

 ここにいう「絶命の詞」は,乃木が残した辞世の歌です。

神あがらいあがりましぬる大君のみあとはるかにをろかみまつる

現し世を神去りましし大君のみあと慕ひて我はゆくなり

 

大正天皇は多くの漢詩を詠みました。

 乃木も漢詩をよく詠みました。

しかし,大正天皇が題材とした乃木の詩は,いずれも和歌でした。

乃木が死ななければ,生きながらえて元勲となっていれば,あるいは漢詩を交わすこともあったのかもしれません。

 

ただ,大正天皇桂太郎が好きでした。

乃木は桂太郎とは全くそりが合いません。

大正天皇と乃木との交流の少なさは,むしろよいことだったかも知れません。

*1:みちのみやひろひと

*2:佐々木英昭乃木希典――予は諸君の子弟を殺したり――』(ミネルヴァ書房,2005年)285頁以下

*3:はるのみやよしひと

*4:原武史大正天皇』(朝日文庫,2015年)220頁

*5:石川忠久編著『大正天皇漢詩集』(大修館書店,2014年)137頁~138頁

*6:石川[2014]144頁~145頁

旅順攻囲戦時系列・戦死傷者数

目次

徐々に作成しています。平成28年12月時点において未完成。

  1. 旅順攻囲戦時系列
  2. 戦死傷者

旅順攻囲戦時系列

時間出来事備考
明治37年
(1904年)
6月 6日   塩大澳(遼東半島)に上陸。  
26日   第三軍,旅順要塞を包囲。  
7月 26日   第三軍,第1回総攻撃開始  
8月 7日   大孤山に観測所を設置して旅順港内への砲撃を開始。  
9日 午前 ロシア第一太平洋艦隊(旅順艦隊)所属の戦艦レトヴィザンに日本軍の砲撃が命中。浸水。戦艦ツェサレーヴィチ損傷。艦隊司令官ヴィリゲリム・ヴィトゲフトが負傷。  
10日   ロシア旅順艦隊が出撃し,黄海海戦が発生。ロシア太平洋艦隊壊滅。  
10月 26日   第三軍,第2回総攻撃開始。  
11月 26日   第三軍,第3回総攻撃開始  
  白襷隊による攻撃  
12月 1日   児玉源太郎,第三軍司令部訪問。  
  乃木保典(希典二男)戦死。  
5日   第三軍,203高地占領。  
  残存していたロシア旅順艦隊,自沈。  
明治38年
(1905年)
1月 1日 午後3時 第三軍,望台を占領。
第三軍,ロシア軍に対して降伏勧告。
 
午後4時 ロシア軍降伏。  
2日   戦闘停止。  
5日   水師営の会見  
13日   第三軍,旅順入城。  
14日   招魂祭  

戦死傷者

括弧内は戦傷者

 日本軍ロシア軍
初期戦力 41,780*1*2
全期間 59,408(44,008)
第1回総攻撃*3 15,860 1,500
第2回総攻撃*4 3830 531
第3回総攻撃    

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参考文献

  1. 参謀本部編纂『明治廿七八年日露戦史』第5巻及び第6巻
  2. I・I・ロストーノフ*5著,大江志乃夫ほか訳『ソ連から見た日露戦争』(原書房,2009年)
  3. 桑原嶽『乃木希典日露戦争の真実 司馬遼太郎の誤りを正す』(PHP研究所<PHP新書>,2016年)
  4. 別宮暖朗『旅順攻防戦の真実――乃木司令部は無能ではなかった』(PHP研究所<PHP文庫>,2006年)
  5. 別宮暖朗日露戦争陸戦の研究』(筑摩書房<ちくま文庫>,2011年)

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*1:7月30日時点。このほか旅順艦隊の乗組員として約12,000人。

*2:ロストーノフ190頁

*3:桑原135頁

*4:桑原149頁

*5:Iva Ivanovich Rostunov,歴史学博士。ソ連国防省軍事史研究所員(当時)。

今日は乃木希典の命日(2016年)

今日は,乃木希典の命日です。

明治天皇の大葬が行われた大正元年(1912年)9月13日午後8時,「遺言条々」を含む複数の遺言書を残して自刃しました

当初は自分だけ自刃する予定でしたが,妻・静子もともに自刃しました。

 

今日,乃木希典自刃の日というニュースが流れることはほとんどありません。

「この日何の日」という類のウェブサイトでも,9月13日の出来事として列挙されたものの中に,乃木自刃の事実が記載されていないこともあります。

 

ただ,乃木本人としては,大仰に騒がれるよりは今日のように忘れ去られている方が嬉しいのかも知れません。

『遺言条々』ーー乃木希典の遺言についてーー

概要

乃木希典は,明治天皇に殉じて自刃した際,「遺言条々」と題した遺言書を残しました。

以下に『遺言条々』の原文現代語訳(試訳)を掲載しました。
原文は,乃木神社(東京都港区赤坂)が所蔵するものを基にしました。平仮名と片仮名とが混在していますが,原文のままです。

原文

遺言条々
第一

自分此度御跡ヲ追ヒ奉リ自殺候段恐入候儀其罪ハ不軽存候
然ル處*1明治十年之役*2ニ於テ軍旗ヲ失ヒ其後 死處得度心掛候も其機を得ず(改行)*3
皇恩ノ厚ニ浴シ今日迄過分ノ御優遇ヲ蒙
追々老衰最早御役ニ立候時も無餘*4日候
折柄此度ノ御大変何共恐入候次第茲ニ覺悟相定候事ニ候

第二

両典*5戦死ノ後は先輩諸氏親友諸彦*6よりも毎々懇諭有之候得共養子ノ弊害ハ古来ノ議論有之
目前乃木大見ノ如キ例他ニも不尠特ニ華族ノ御優遇相蒙り居
実子ナラハ致方も無之候得共却テ汚名ヲ残ス様ノ憂ヘ無
之為メ天理ニ背キタル事ハ致ス間敷事ニ候
祖先ノ墳墓ノ守護ハ血縁ノ有之限りハ其者共の気ヲ付可申事ニ候
乃チ新坂邸*7ハ其為メ区又ハ市ニ寄付シ可然方法願度候

第三

資財分輿ノ儀ハ別紙之通り相認置候
其他ハ静子より相談可仕候

第四

遺物分配ノ儀ハ自分軍職上ノ副官タリシ諸氏ヘハ時計メートル眼鏡馬具刀剣等軍人用品ノ内ニテ見計ヒノ儀塚田大佐*8ニ御依頼申置候
大佐ハ前後両度ノ戦役ニも尽力不少
静子承知ノ次第御相談可被成候
其他ハ皆々ノ相談ニ任セ申候

第五

御下賜品(各殿下ヨリノ分も)御紋付ノ諸品は悉皆取纏メ学習院へ寄付可然
此儀ハ松井*9 猪谷*10両氏ヘも依頼仕置候

第六

書籍類ハ学習院へ採用相成候分ハ可成寄付
其餘ハ長府図書館江同断不用ノ分ハ兎も角もニ候

第七

父君祖父曾祖父君ノ遺書類ハ乃木家ノ歴史トモ云フヘキモノナル故厳ニ取纏メ真ニ不用ノ分ヲ除キ佐々木侯爵家又ハ佐々木神社ヘ永久無限ニ御預ケ申度候

第八

遊就館ヘ出品は其儘寄付致シ可申
乃木ノ家ノ記念ニハ保存無此上良法ニ候

第九

静子儀追々老境ニ入石林*11ハ不便ノ地病気等節心細クトノ儀尤モ存候
右ハ集作*12ニ譲り中野ノ家*13ニ住居可然同意候
中野ノ地所家屋ハ静子其時ノ考ニ任セ候

第十

此方死骸ノ儀は石黒男爵*14ヘ相願置候間可然医学校ヘ寄付可致
墓下ニハ毛髪爪歯(義歯共)ヲ入レテ充分ニ候(静子承知)

○恩賜ヲ頒ット書キタル金時計ハ玉木正之ニ遣ハシ候筈ナリ
軍服以外ノ服装ニテ持ツヲ禁シ度候

右ノ外細事ハ静子ヘ申付置候間御相談被下度候
伯爵乃木家ハ静子生存中ハ名義可有之候得共呉々も断絶ノ目的ヲ遂ケ候儀度大切ナリ
右遺言如此候也

大正元年九月十二日夜

希典

(花押)

湯地定基*15殿
大舘集作*16殿
玉木正之*17殿

静子*18との

現代語訳(試訳)

第一

私は,この度,畏れ多くも天皇陛下*19のお後を追わせて頂くため自殺を致します。
私の罪は軽くありません。
西南戦争において軍旗を失いました
その後,死に場所を求めておりましたが,機会を得られず生きながらえ,天皇陛下の深い御恩によって今日まで過分なるご厚遇を頂戴しましたが,ますます老い衰え,もはや(ご皇室の)お役に立てる時も残っていない折り,この度の一大事*20が生じ,全くもって恐れ入る次第であり,ここに覚悟を定めることと致しました。

第二

長男・勝典と次男・保典が戦死した後は*21,先輩諸氏及び親友の方々からも,毎度,心を砕いて諭して頂きましたが,養子*22をとることの弊害は古くから謂われており,乃木申造*23や大見丙子郞*24のような例も少なくありません。
特に華族としての待遇を受けており,実子がいたなら家名存続も致し方ありませんが,実子がいませんので,かえって汚名を残すことへの心配がなく,天理に背くことはするべきでありません。

祖先の墓守は血縁の者がいる限りはその者たちが気をつけるべき事です。
従って,新坂の家は赤坂区又は東京市に寄付するようお願いします。

第三

遺産のことは別紙のとおり。その他のことは静子から相談させます*25

第四

形見分けについて,自分の軍職上の副官だった諸氏には時計,メートル眼鏡,馬具刀剣など軍人用品の中から見繕って配分するよう塚田大佐にお願いします。
塚田大佐は,日清・日露戦争において少なからず尽力し,静子も承知のことですので,相談してください。
その他のことは皆の協議に任せます。

第五

天皇陛下から賜った品(各殿下から賜った品も),(皇室の)御紋付きの品は,すべて取りまとめて学習院へ寄付するように。このことは,松井・猪谷両氏にも依頼します。

第六

書籍について,学習院に引き取ってもらえるものは寄付します。そのほかは長府図書館に寄付します。
学習院同様,不要ということであれば別ですが。

第七

父,祖父,曾祖父の遺書の類は,乃木家の歴史ともいうべきものですので,しっかりととりまとめ,本当に不要なものを除いて,佐々木侯爵家又は佐々木神社へ永久無限にお預かり頂きたい。

第八

遊就館について,出品しているものはそのまま寄付します。
乃木家の記念として保存するにこれ以上よい方法はありません。

第九

静子について,いよいよ老境に入り,石林は不便なであって病気などした場合には心配であるとのこと,もっともです。石林の別邸は大舘集作に譲り,中野の家に住んで下さい。
中野の土地建物の処分は,静子のその時の考えに任せます。

第十

私の死体のことは石黒男爵にお願いします。医学校へ寄附して下さい。
墓には死体の代わりに毛髪・爪歯(義歯も)を入れれば十分です(このことは静子も承知しています。)。

恩賜の金時計は玉木正之に渡しました。軍服以外の服装のときにこの時計を持つことを禁じます。

以上のことのほか,細かなことは静子に申しつけておきましたので,相談してください。
乃木伯爵家は,静子生存中は存続させて構いませんが,断絶させるという目的を遂げることが重要です。

遺言は以上のとおりです。

大正元年9月12日夜

希典

(花押)

湯地定基殿
大舘集作殿
玉木正之殿

静子との

*1:「処」の異体字

*2:西南戦争のこと。

*3:原文でもここで急に改行されています。天皇に関する語句は畏れ多いものとして,その直前に空白を設けたり改行したりする慣例に従ったものと思われます。

*4:「余」の異体字

*5:長男・勝典と次男・保典のこと

*6:「しょげん」。親友の方々,という意味。

*7:自刃当時に住んでいた家。後の「旧乃木邸」。

*8:塚田清市・陸軍歩兵大佐。乃木希典の副官を務めたことがあった人物。

*9:松井安三郎・学習院主事

*10:猪谷不美男・学習院生徒監

*11:那須下野国那須郡狩野村石林)にあった別邸。那須野旧宅。

*12:大舘集作のこと。乃木希典の弟。後述。

*13:東京府豊多摩郡中野町にあった湯地定彦名義の土地建物

*14:石黒忠悳・陸軍軍医総監

*15:乃木希典の妻・静子の兄。薩摩藩士属。根室県令,元老院議官を経て貴族院議員。

*16:乃木希典の弟。大舘家の養子となっていた。

*17:乃木希典の弟・玉木真人(玉木正誼)の子。真人は,乃木希典の師である玉木文之進の養子となっていましたが,萩の乱において明治政府と戦い戦死。正之は,乃木希典・静子の葬儀において喪主を務めました。

*18:ともに殉死した妻・静子

*19:明治天皇

*20:明治天皇崩御のこと。

*21:希典の長男・次男は,ともに日露戦争において戦死。

*22:長男・勝典にも次男・保典にも子はなく,希典は養子も取らなかったことから,希典には直系の子孫はいません。乃木伯爵家は希典の死をもって断絶しました。なお,毛利元智を当主とする乃木家(子爵)が再興されましたが,元智と希典との間に血縁も養子等の関係もありません。後に再興された乃木家は,元智が乃木姓と爵位を返上して再び断絶しました。

*23:萩にあった乃木家の当主。先代・乃木高行の養子となり萩乃木家を継いだものの,素行が悪く,先祖累代の墓を売ってしまったとも謂われます。乃木希典自刃後,自身の家が乃木の本家であると主張して,若干の議論を呼びました。井戸田博史『乃木希典殉死・以後 伯爵家再興をめぐって』(新人物往来社,1989年)96頁~97頁

*24:乃木希典の従姉妹である大見ふき子は,明治16年,当時5~6歳だった丙子郞を養子にとりました。丙子郞は海軍兵学校を卒業し,乃木希典自刃の時には大佐になっていました。しかし,丙子郞は,養母ふき子と別居し,仕送りもしなかったと謂います。前掲・井戸田[1989]66頁

*25:妻・静子はともに殉死しましたが,遺言を書いた当時は希典一人が殉死する予定でした。

旧乃木邸(東京・赤坂)

所在

乃木希典は,明治11年(1878年),静子との結婚を機に,東京・虎ノ門(東京都港区虎ノ門1丁目22番地)へ新居を構えました。

明治12年(1979年)8月28日には長男・乃木勝典が生まれます。

そして,その年の冬,赤坂区新坂町に転居しました。
転居後の明治14年(1881年)12月16日,次男・乃木保典が生まれました。

その後,乃木希典は,大正元年に自害するまで,新坂町に住んでいました。
それが今も保存されている「旧乃木邸」です。
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旧乃木邸は,東京都港区赤坂にあります。

乃木希典存命中である明治35年に改築された建物が残されています。

隣接する坂は「乃木坂」です。

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乃木希典の自害後,「幽霊坂」から改称されました。

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母屋

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旧乃木邸は,木造住宅です。
ただし,1階部分は半地下になっており,コンクリート製です。

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この建物は,乃木希典がドイツ留学中に見たフランス軍の建物(連隊本部)を基にしているといわれます*1
高級軍人であり伯爵の爵位も有していた人物にしては簡素な建物と言えます。

正面玄関から向かって右側に内玄関があります。家族が用いる玄関です。

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乃木邸の内部には入れません(特別公開時を除く。)。
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部屋の中は,建物の周りに作られた通路から見ることができます。

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馬小屋

他方,馬小屋はレンガ造りです。

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乃木邸が改築される前の明治22年に建設されました。

ここでは,日露戦争における旅順要塞の司令官として乃木希典と戦ったステッセルから贈られた馬も飼育されていました。

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*1:旧乃木邸の案内板から。

桑原嶽『乃木希典と日露戦争の真実』(PHP新書)

桑原嶽『乃木希典日露戦争の真実』(PHP新書,2016年)は,同『名将 乃木希典(第五版)』(中央乃 木会,2005年)を復刊したものです。

内容は,『名将~』と変わりません。
それでも,入手しやすくなったのは大変価値があることだと思います。

目次は以下のとおりです。

内容としては,日露戦争における乃木希典(第3軍)の活動につき,一方において乃木希典を低く評価し,他方において児玉源太郎を高く評価した司馬遼太郎の見方に対する反論です。
特に,第4章の旅順攻囲戦に関する記述が充実しています。
乃木希典は,単純な突撃を繰り返して徒に死傷者を増やした』という風説が誤解であり,むしろ時間をかけてでも味方の損害を減らし,ここぞという場面で敵軍に消耗を強いるという合理的な戦術がとられたことを繰り返し述べています。

あとがきには,著者・桑原が司馬遼太郎と直接討論したエピソードが紹介されており,大変興味深いものとなっています。

また,乃木希典とともに,司馬遼太郎によって「愚将」とされてしまった伊地知幸介についてもフォローされています。
伊地知についてフォローした書籍は少なく,この部分だけでも一読の価値があるかと思います。

なお,『大山巌児玉源太郎に第3軍の指揮権を与えるという書簡を書いたこと自体,非常識で事実かどうかも疑わしい。』という批判は,復刊前と同様,記載されています*3

大山が児玉に指揮権を与えた書簡を書いたなどということは,軍事上の常識からもあり得ず,巷間の俗説として一笑に付してもよいのである。

しかし,満州軍総司令官・大山巌が,総参謀長である児玉に対し,第3軍の指揮権を委ねる旨が記載された「総参謀長派遣に関する訓令」*4が存在しています。
桑原氏の上記見解は,誤りであると思います。

このことに関して,記述は修正されていません。注記・注釈の追加もありません。修正していない理由も不明です。
この点は,乃木愚将論の大きなエピソードに関する論点だけに,やや残念です。

ただし,桑原氏は,上記引用の直前において,より本質的なことを述べています*5。これこそが,司馬氏に対する最も強力な批判であり,上記修正がなくとも本書の価値は正当に評価されるべきものと思います。

事実,田中の回想にもあるごとく,児玉は遠慮なく乃木に発言し,伊地知以下の乃木の幕僚をところかまわず怒鳴りつけたのである。しかし意見をガミガミ言うことと,指揮をとることとは,見た目は同じであっても,本質的に全く違っているのである。

*1:京都大学名誉教授

*2:乃木神社宮司

*3:本書302頁

*4:陸軍省編『明示軍事史 下』1447~1448頁所収

*5:本書302頁