村野鉄男はなぜ「乃木大将」と呼ばれるのか?
令和2年(2020年)3月30日から放映されている連続テレビ小説『エール』に登場する村野鉄男の少年時代のあだ名は「乃木大将」です。乃木大将とは、乃木希典のことです。
村野鉄男のモデルとされる野村俊夫が生まれたのは1904年11月21日。
その5日後である11月26日には乃木希典率いる第三軍が旅順要塞に第3回総攻撃を行う、という時期でした。
主人公である古山裕一や上記村野鉄男が小学生になってしばらくしたころ(1912年)、乃木希典は自刃します。
村野鉄男が「乃木大将」とあだ名されるのはなぜでしょうか。
ガキ大将→大将といえば→乃木大将
という単純なことかもしれません。
ですが、ただ単に「大将」ということなら、東郷平八郎でもよいはずです。
乃木希典は、部下の横領という不祥事に心を痛め、躊躇なく職を辞する潔さをもっていました。
旅順要塞攻略後、敵将・ステッセルを紳士的に扱い世界的な賞賛を受けました。
明治天皇の影響により、和歌もよく詠みました。
このように筋を通そうとするところや、詩歌を愛したところは、乃木希典と村野鉄男とに共通するところです。
こうしたところが「乃木大将」と呼ばれる所以かもしれません。
拳骨拓史『乃木希典-武士道を体現した明治の英雄 エピソードで伝える偉人伝 』
本書は、子供でも読みやすい総ルビのエピソード集です。乃木希典の高潔な人格と親しみやすさを伝えるものが多く取り上げられています。
軍旗喪失、水師営の会見及び殉死といった有名なエピソードが取り上げられているのはもちろんですが、
- 張学良の乃木に対する敬意(4頁)
- 乃木が率いる日本軍によって受けた恩に報いた中国人・王宝停(5頁)
といった外国人、特に日本の帝国主義の被害者である中国人からも賛辞を惜しまれなかった乃木の姿が描かれています。
また、相手(敵国)に対する敬意と自分(自国)の増長を戒めるエピソードが多く、戦前戦後、そして現代にも跳梁跋扈する単純短慮な国粋主義者(いわゆるネトウヨを含む。)とは一線を画す愛国者・乃木の姿が浮かび上がります。
例えば、乃木は、日露戦争の祝勝会で以下のように述べました(53頁)。
忘れてはならないのは、敵が大不幸をみたことである。わが戦勝を祝うと同時に、またわれわれは敵の苦境にあることを忘れないようにしたい。彼らは強いて不義の戦をさせられて死についた。立派な敵であることを認めてやらなければならない。
また、乃木は、学習院の生徒から「個人の自賛は見苦しいですが、国家の自賛も同じではないでしょうか?」と問われ、以下のように答えました(63頁)。
うむ、自賛はうぬぼれじゃよ。自賛と自信はハッキリと区別せねばならぬ。
己を磨くことで、結果としての勝利を得てきた乃木。
徹頭徹尾成功ばかりではなく、自分の欠点や不幸に苦しみながらも生き抜いた乃木。
そうした姿にあこがれる私としては、幼少期に泣き虫といじめられたエピソードが抜かれている(むしろ「泣き虫ではなかった」とされている)点にはやや不満をおぼえるところです。
しかし、子供にも読める乃木希典の本として、本書は現代に唯一無二*1といえましょう。
乃木希典の本にありがちな、司馬史観への批判もほぼないこともまた、本書のよさであり、自己を高めることを本文とした乃木希典の生き方にも通じましょう。
磯田道史『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』
司馬遼太郎は,明治時代は透きとおった,格調の高い精神で支えられたリアリズム
の時代だといいます。
磯田道史『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』は,司馬のいうリアリズムを解説して,社会的,公共的に大きな場面での現実主義
,世のため人のためのリアリズム
であり(本書126頁),明治のリアリズムは,官や国家に対する宗教性をおびた信頼を背景に,お国のため,日本国家のために産業を興すという形で現れた
といいます(本書130頁)。
そして磯田は,司馬のリアリズムから『坂の上の雲』を読み解くと称して二人の人物を取り上げます。
磯田の見立てでは,明治という時代を,司馬さんはこの秋山と乃木,二人の合成体としてとらえて
,この不達のタイプの日本人がいて,明治という国家ができあがっている。それを見事に書き分けてい
るのが,『坂の上の雲』だということです。
磯田は,秋山について,海外留学して研鑽し,非常に独創性のあるリアリズム
を発揮し,「術力」概念をも生み出した合理的に戦力を考えるというリアリズム
を備えた人と評価します(本書134頁~135頁)。
他方,乃木希典については,不合理なリアリズム
の人とします(本書135頁)。
対する乃木は,自分は軍人だからといって,軍服を着たままベッドで寝続けるという不合理さをまとっていました。乃木の根底にあったのは,秋山と同じく格調高い公共性心ですが,その不合理なリアリズムでは戦争に勝てません。
第一の誤りは,乃木は旅順で極めて合理的に戦った事実を踏まえていない(知らない?)ことです。
乃木は合理的に主攻を選択し,望台を目指しました。
大本営から急かされてやむなく行った総攻撃が失敗すると,大本営の要請を無視して準備に時間をかける正攻法に転換しました。
新たな戦術も編み出しました。
第二の誤りは,乃木が旅順攻囲戦に勝ったことを無視していることです。
奉天会戦では,司令部に翻弄されながらも勝利に貢献しました。
司馬は小説を盛り上げるため,乃木の合理性を無視しました。
磯田は秋山真之との対比という自説を述べるため,乃木の合理性を無視しています。
203高地をはじめ旅順をめぐる攻防戦で,乃木は多くの将兵を死なせてしまいます。結果として日露戦争は日本の勝利に終わったため,乃木は「軍神」として伝説化するわけですが,「乃木凡将論」「乃木愚将論」もささやかれていました。それが決定的になったのは『坂の上の雲』によってでしょう。
乃木に十分な弾薬も情報も供給できなかったのは大本営です。攻撃を急かして失敗させたのも大本営です。司令部も旅順を軽視していました。乃木は,損害を出しながらも戦術を練り,旅順という近代要塞をを半年という短期間で落としました。第一次世界大戦における両陣営の将軍は,近代要塞を攻略できないこともしばしばでした。それににも関わらず,「損害が大きかった」ということを主たる根拠として乃木に責任を問い,旅順攻略の事実は無視してその功績を乃木に認めないのは,公平・公正なな評価とは言えません。
また,磯田は,司馬が乃木を「無能」と評した部分を引用した上で,次のように述べます。
ここには,司馬さん自身が体験した昭和陸軍につながる「暗部」に対する怒りと鋭い批判が込められています。司馬さんは乃木という,国民からはその「格調高く愚直な精神」を非常に愛された人物を通じて,明治のリアリズムの「暗」の部分を,しっかりと見つめているのです。
乃木は,旅順攻略中,大本営に対して常に弾薬の不足を訴えていました。
弾薬がないので「肉弾」で対応せよと述べたのは大本営でした。
乃木ではありません。
その乃木に「暗部」を見るのは,乃木をスケープゴートにすることにほかなりません。
乃木は,司馬の昭和陸軍に対する恨み・つらみのとばっちりを受け続けています。
なお,道田は,以下のように述べて「フォロー」をしていますが,結局のところ,日露戦争において乃木(及び第三軍司令部)は無能だったことを前提としています。
司馬さんは,乃木だけではなく,彼の下で作戦の指揮をとる幹部をまとめて「無能」と激しく非難します(もちろん,「司馬リテラシー」をもつ私たちは,この表現が日露戦争における役割という限定された意味であることを理解して読むべきです)。
この一文は本書の客観性・公平性・公正性をなんら示すものではありません。
大正天皇と乃木希典
「信仰」といえるほどの強い畏敬の念も抱いていました。
明治天皇も乃木を信頼していました。
明治天皇は,迪宮裕仁*1親王(後の昭和天皇)の養育のため学習院院長に就任させ,御製の和歌を贈りました。
いさをある 人を教への 親として おほし立てなむ 大和なでしこ
乃木の薫陶を受けた昭和天皇も,後に乃木から大きな影響を受けたと語りました。
乃木の死を聞いた幼少の昭和天皇(迪宮)は涙を浮かべ,
「ああ,残念なことである。」
とおっしゃって大きくため息をつかれました*2。
このように,明治天皇及び迪宮(昭和天皇)と乃木との関わりについては様々なエピソードがあります。
これに対し,大正天皇と乃木とのエピソードは多くありません。
明治44年(1911年)11月19日,伊丹で行われた陸軍の演習を見学した明宮嘉仁*3親王(大正天皇)に対して説明を行ったのは,乃木でした*4。
しかし,大正天皇と乃木との間における特別なエピソードは伝えられていません。
明治天皇・迪宮(昭和天皇)との関わりがむしろ特別に濃密だったのでしょう。
しかし,大正天皇が乃木に対して無視を決め込んでいたわけではありません。
草長鶯啼日欲沈(草長び鶯啼いて 日沈まんと欲す)
芳櫻花下惜花深(芳桜花下 花を惜しむこと深し)
櫻花再發将軍死(桜花再び発いて 将軍死す)
詞裏長留千古心(詞裏長く留む 千古の心)
ここにいう「乃木希典惜花詞」とは,乃木が詠んだ以下の和歌です。
色あせて梢にのこるそれならで散りし花こそ恋しかりけれ
憶陸軍大将乃木希典
滿腹誠忠世所知(満腹の誠忠 世の知る所)
武勲赫赫遠征時(武勲赫々たり 遠征の時)
夫妻一旦殉明主(夫妻 一旦 明主に殉じ)
四海流傳絶命詞(四海 流伝す 絶命の詞)
ここにいう「絶命の詞」は,乃木が残した辞世の歌(以下)です。
神あがらいあがりましぬる大君のみあとはるかにをろかみまつる
現し世を神去りましし大君のみあと慕ひて我はゆくなり
乃木も漢詩をよく詠みました。
しかし,大正天皇が題材とした乃木の詩は,いずれも和歌でした。
乃木が死ななければ,生きながらえて元勲となっていれば,あるいは漢詩を交わすこともあったのかもしれません。
乃木は桂太郎とは全くそりが合いません。
大正天皇と乃木も,そりが合わなかったかも知れません。
大正天皇と乃木との交流の少なさは,むしろよいことだったかも知れません。
旅順攻囲戦時系列・戦死傷者数
目次
徐々に作成しています。平成28年12月時点において未完成。
旅順攻囲戦時系列
年 | 月 | 日 | 時間 | 出来事 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
明治37年 (1904年) |
6月 | 6日 | 塩大澳(遼東半島)に上陸。 | ||
26日 | 第三軍,旅順要塞を包囲。 | ||||
7月 | 26日 | 第三軍,第1回総攻撃開始 | |||
8月 | 7日 | 大孤山に観測所を設置して旅順港内への砲撃を開始。 | |||
9日 | 午前 | ロシア第一太平洋艦隊(旅順艦隊)所属の戦艦レトヴィザンに日本軍の砲撃が命中。浸水。戦艦ツェサレーヴィチ損傷。艦隊司令官ヴィリゲリム・ヴィトゲフトが負傷。 | |||
10日 | ロシア旅順艦隊が出撃し,黄海海戦が発生。ロシア太平洋艦隊壊滅。 | ||||
10月 | 26日 | 第三軍,第2回総攻撃開始。 | |||
11月 | 26日 | 第三軍,第3回総攻撃開始 | |||
夜 | 白襷隊による攻撃 | ||||
12月 | 1日 | 児玉源太郎,第三軍司令部訪問。 | |||
乃木保典(希典二男)戦死。 | |||||
5日 | 第三軍,203高地占領。 | ||||
残存していたロシア旅順艦隊,自沈。 | |||||
明治38年 (1905年) |
1月 | 1日 | 午後3時 | 第三軍,望台を占領。 第三軍,ロシア軍に対して降伏勧告。 |
|
午後4時 | ロシア軍降伏。 | ||||
2日 | 戦闘停止。 | ||||
5日 | 水師営の会見 | ||||
13日 | 第三軍,旅順入城。 | ||||
14日 | 招魂祭 |
戦死傷者
括弧内は戦傷者
日本軍 | ロシア軍 | |
---|---|---|
初期戦力 | 41,780*1*2 | |
全期間 | 59,408(44,008) | |
第1回総攻撃*3 | 15,860 | 1,500 |
第2回総攻撃*4 | 3830 | 531 |
第3回総攻撃 |
参考文献
『遺言条々』ーー乃木希典の遺言についてーー
概要
乃木希典は,明治天皇に殉じて自刃した際,「遺言条々」と題した遺言書を残しました。
以下に『遺言条々』の原文と現代語訳(試訳)を掲載しました。
原文は,乃木神社(東京都港区赤坂)が所蔵するものを基にしました。平仮名と片仮名とが混在していますが,原文のままです。
原文
遺言条々
第一
自分此度御跡ヲ追ヒ奉リ自殺候段恐入候儀其罪ハ不軽存候
然ル處*1明治十年之役*2ニ於テ軍旗ヲ失ヒ其後 死處得度心掛候も其機を得ず(改行)*3
皇恩ノ厚ニ浴シ今日迄過分ノ御優遇ヲ蒙
追々老衰最早御役ニ立候時も無餘*4日候
折柄此度ノ御大変何共恐入候次第茲ニ覺悟相定候事ニ候
第二
両典*5戦死ノ後は先輩諸氏親友諸彦*6よりも毎々懇諭有之候得共養子ノ弊害ハ古来ノ議論有之
目前乃木大見ノ如キ例他ニも不尠特ニ華族ノ御優遇相蒙り居
実子ナラハ致方も無之候得共却テ汚名ヲ残ス様ノ憂ヘ無
之為メ天理ニ背キタル事ハ致ス間敷事ニ候
祖先ノ墳墓ノ守護ハ血縁ノ有之限りハ其者共の気ヲ付可申事ニ候
乃チ新坂邸*7ハ其為メ区又ハ市ニ寄付シ可然方法願度候
第三
資財分輿ノ儀ハ別紙之通り相認置候
其他ハ静子より相談可仕候
第四
遺物分配ノ儀ハ自分軍職上ノ副官タリシ諸氏ヘハ時計メートル眼鏡馬具刀剣等軍人用品ノ内ニテ見計ヒノ儀塚田大佐*8ニ御依頼申置候
大佐ハ前後両度ノ戦役ニも尽力不少
静子承知ノ次第御相談可被成候
其他ハ皆々ノ相談ニ任セ申候
第五
御下賜品(各殿下ヨリノ分も)御紋付ノ諸品は悉皆取纏メ学習院へ寄付可然
此儀ハ松井*9 猪谷*10両氏ヘも依頼仕置候
第六
書籍類ハ学習院へ採用相成候分ハ可成寄付
其餘ハ長府図書館江同断不用ノ分ハ兎も角もニ候
第七
父君祖父曾祖父君ノ遺書類ハ乃木家ノ歴史トモ云フヘキモノナル故厳ニ取纏メ真ニ不用ノ分ヲ除キ佐々木侯爵家又ハ佐々木神社ヘ永久無限ニ御預ケ申度候
第八
遊就館ヘ出品は其儘寄付致シ可申
乃木ノ家ノ記念ニハ保存無此上良法ニ候
第九
静子儀追々老境ニ入石林*11ハ不便ノ地病気等節心細クトノ儀尤モ存候
右ハ集作*12ニ譲り中野ノ家*13ニ住居可然同意候
中野ノ地所家屋ハ静子其時ノ考ニ任セ候
第十
此方死骸ノ儀は石黒男爵*14ヘ相願置候間可然医学校ヘ寄付可致
墓下ニハ毛髪爪歯(義歯共)ヲ入レテ充分ニ候(静子承知)
○恩賜ヲ頒ット書キタル金時計ハ玉木正之ニ遣ハシ候筈ナリ
軍服以外ノ服装ニテ持ツヲ禁シ度候
右ノ外細事ハ静子ヘ申付置候間御相談被下度候
伯爵乃木家ハ静子生存中ハ名義可有之候得共呉々も断絶ノ目的ヲ遂ケ候儀度大切ナリ
右遺言如此候也
大正元年九月十二日夜
希典
(花押)
静子*18との
現代語訳(試訳)
第一
私は,この度,畏れ多くも天皇陛下*19のお後を追わせて頂くため自殺を致します。
私の罪は軽くありません。
西南戦争において軍旗を失いました。
その後,死に場所を求めておりましたが,機会を得られず生きながらえ,天皇陛下の深い御恩によって今日まで過分なるご厚遇を頂戴しましたが,ますます老い衰え,もはや(ご皇室の)お役に立てる時も残っていない折り,この度の一大事*20が生じ,全くもって恐れ入る次第であり,ここに覚悟を定めることと致しました。
第二
長男・勝典と次男・保典が戦死した後は*21,先輩諸氏及び親友の方々からも,毎度,心を砕いて諭して頂きましたが,養子*22をとることの弊害は古くから謂われており,乃木申造*23や大見丙子郞*24のような例も少なくありません。
特に華族としての待遇を受けており,実子がいたなら家名存続も致し方ありませんが,実子がいませんので,かえって汚名を残すことへの心配がなく,天理に背くことはするべきでありません。
祖先の墓守は血縁の者がいる限りはその者たちが気をつけるべき事です。
従って,新坂の家は赤坂区又は東京市に寄付するようお願いします。
第三
遺産のことは別紙のとおり。その他のことは静子から相談させます*25。
第四
形見分けについて,自分の軍職上の副官だった諸氏には時計,メートル眼鏡,馬具刀剣など軍人用品の中から見繕って配分するよう塚田大佐にお願いします。
塚田大佐は,日清・日露戦争において少なからず尽力し,静子も承知のことですので,相談してください。
その他のことは皆の協議に任せます。
第五
天皇陛下から賜った品(各殿下から賜った品も),(皇室の)御紋付きの品は,すべて取りまとめて学習院へ寄付するように。このことは,松井・猪谷両氏にも依頼します。
第六
書籍について,学習院に引き取ってもらえるものは寄付します。そのほかは長府図書館に寄付します。
学習院同様,不要ということであれば別ですが。
第七
父,祖父,曾祖父の遺書の類は,乃木家の歴史ともいうべきものですので,しっかりととりまとめ,本当に不要なものを除いて,佐々木侯爵家又は佐々木神社へ永久無限にお預かり頂きたい。
第八
遊就館について,出品しているものはそのまま寄付します。
乃木家の記念として保存するにこれ以上よい方法はありません。
第九
静子について,いよいよ老境に入り,石林は不便なであって病気などした場合には心配であるとのこと,もっともです。石林の別邸は大舘集作に譲り,中野の家に住んで下さい。
中野の土地建物の処分は,静子のその時の考えに任せます。
第十
私の死体のことは石黒男爵にお願いします。医学校へ寄附して下さい。
墓には死体の代わりに毛髪・爪歯(義歯も)を入れれば十分です(このことは静子も承知しています。)。
恩賜の金時計は玉木正之に渡しました。軍服以外の服装のときにこの時計を持つことを禁じます。
以上のことのほか,細かなことは静子に申しつけておきましたので,相談してください。
乃木伯爵家は,静子生存中は存続させて構いませんが,断絶させるという目的を遂げることが重要です。
遺言は以上のとおりです。
大正元年9月12日夜
希典
(花押)
湯地定基殿
大舘集作殿
玉木正之殿
静子との
*3:原文でもここで急に改行されています。天皇に関する語句は畏れ多いものとして,その直前に空白を設けたり改行したりする慣例に従ったものと思われます。
*6:「しょげん」。親友の方々,という意味。
*7:自刃当時に住んでいた家。後の「旧乃木邸」。
*8:塚田清市・陸軍歩兵大佐。乃木希典の副官を務めたことがあった人物。
*11:那須(下野国那須郡狩野村石林)にあった別邸。那須野旧宅。
*14:石黒忠悳・陸軍軍医総監
*15:乃木希典の妻・静子の兄。薩摩藩士属。根室県令,元老院議官を経て貴族院議員。
*17:乃木希典の弟・玉木真人(玉木正誼)の子。真人は,乃木希典の師である玉木文之進の養子となっていましたが,萩の乱において明治政府と戦い戦死。正之は,乃木希典・静子の葬儀において喪主を務めました。
*18:ともに殉死した妻・静子
*22:長男・勝典にも次男・保典にも子はなく,希典は養子も取らなかったことから,希典には直系の子孫はいません。乃木伯爵家は希典の死をもって断絶しました。なお,毛利元智を当主とする乃木家(子爵)が再興されましたが,元智と希典との間に血縁も養子等の関係もありません。後に再興された乃木家は,元智が乃木姓と爵位を返上して再び断絶しました。
*23:萩にあった乃木家の当主。先代・乃木高行の養子となり萩乃木家を継いだものの,素行が悪く,先祖累代の墓を売ってしまったとも謂われます。乃木希典自刃後,自身の家が乃木の本家であると主張して,若干の議論を呼びました。井戸田博史『乃木希典殉死・以後 伯爵家再興をめぐって』(新人物往来社,1989年)96頁~97頁
*24:乃木希典の従姉妹である大見ふき子は,明治16年,当時5~6歳だった丙子郞を養子にとりました。丙子郞は海軍兵学校を卒業し,乃木希典自刃の時には大佐になっていました。しかし,丙子郞は,養母ふき子と別居し,仕送りもしなかったと謂います。前掲・井戸田[1989]66頁
*25:妻・静子はともに殉死しましたが,遺言を書いた当時は希典一人が殉死する予定でした。