乃木希典伝(4)―乃木「希典」の誕生と活躍―
乃木「希典」の誕生
改名「希典」
源三は,明治4年(1871年)12月,名を「希典」と改めました*1。
ここに,「乃木希典」が誕生したのです。
希典は,東京鎮台第三分営大弐心得*2及び名古屋鎮台大弐を歴任し*3,軍人として順調に歩み出しました。
しかし,明治7年(1873年)5月12日,希典は『家事上の理由』から辞表を提出して休職に入ります。
ところが,わずか4か月後の同年9月10日には陸軍卿伝令使*4として復職しました。
この休職と復職の真の理由は,はっきりとしません。
なお,陸軍卿伝令使となった時期の希典は,夜遊びが過ぎて山縣有朋から説諭を受けるほどでした*5。
秋月の乱を鎮圧
希典は,明治8年(1875年)12月,熊本鎮台歩兵第14連隊長心得に任じられ,小倉に赴任しました。
前任者の山田頴太郎は,後に萩の乱を起こす前原一誠の実弟でした。
前原一派に呼応して挙兵する可能性があったので,山田は連隊長を解任され,希典が後任にあたることとなったのです*6。
希典が連隊長心得に就任した後,希典の実弟である
玉木正諠は,前原一誠の一派に属しており,前原に同調するよう希典を勧誘しにきたのです
しかし,希典は勧誘には応じませんでした。
そして希典は,あくまで政府の軍人として,弟の件を含め,山縣有朋に前原一派の動静を報告しました*8。
翌明治9年(1876年),宮崎車之助らによる秋月の乱が勃発します。
西南戦争へと続いていく不平士族の反乱がついに始まりました。
希典は,他の反乱士族との合流を目論む宮崎らの動向を察知しました。
そこで,連隊を分け,豊津において宮崎らを挟撃し,反乱軍を潰走させました*9。
師・玉木の死
このとき,希典は,自らが率いる第14連隊を特に動かしませんでした。
萩の乱はほどなく鎮圧されましたが,実弟・玉木正諠は反乱軍に与して戦死し,学問の師である玉木文之進は,自らの門弟の多くが萩の乱に参加したことに対する責任をとって自害しました*10。
萩の乱の後,陸軍大佐・福原和勝は,希典に書簡を送り,秋月の乱における豊津での戦闘以外に戦闘を行わず,大阪鎮台に援軍を要請した希典の行為を非難しました*11。
これに対して希典は,福原に返書を送り,小倉でも反乱の気配があったことなどから連隊を動かさなかったことは正当であると説明しました。
この説明に,福原も納得したようです*12。
「西南戦争――連隊旗喪失――」に続く。
(1)から(13)まで通読したい場合には,「乃木希典伝(全)」へ。
参考文献
- 大濱徹也『乃木希典』(講談社<講談社学術文庫>,2010年)
- 岡田幹彦『乃木希典――高貴なる明治』(展転社,2001年)
- 桑原嶽『名将 乃木希典――司馬遼太郎の誤りを正す(第5版)』(中央乃木会,2005年)
- 桑原嶽『乃木希典と日露戦争の真実 司馬遼太郎の誤りを正す』(PHP研究所<PHP新書>,2016年)
- 小堀桂一郎『乃木将軍の御生涯とその精神――東京乃木神社御祭神九十年祭記念講演録』(国書刊行会,2003年)
- 佐々木英昭『乃木希典――予は諸君の子弟を殺したり――』(ミネルヴァ書房,2005年)
- 司馬遼太郎『坂の上の雲(4)(新装版)』(文藝春秋<文春文庫>,1999年a)
- 司馬遼太郎『坂の上の雲(5)(新装版)』(文藝春秋<文春文庫>,1999年b)
- 司馬遼太郎『殉死(新装版)』(文藝春秋<文春文庫>,2009年)
- 戸川幸夫『人間 乃木希典』(学陽書房,2000年)
- 徳見光三『長府藩報国隊史』(長門地方資料研究所,1966年)
- 中西輝政『乃木希典――日本人への警醒』(国書刊行会,2010年)
- 乃木神社・中央乃木會監修『いのち燃ゆ――乃木大将の生涯』(近代出版社,2009年)
- 半藤一利ほか『歴代陸軍大将全覧 明治篇』(中央公論新社<中公新書ラクレ>,2009年)
- 福田和也『乃木希典』(文藝春秋<文春文庫>,2007年)
- 長南政義『新資料による日露戦争陸戦史~覆される通説~』(並木書房,2015年)
- 別宮暖朗『旅順攻防戦の真実――乃木司令部は無能ではなかった』(PHP研究所<PHP文庫>,2006年)
- 別宮暖朗『日露戦争陸戦の研究』(筑摩書房<ちくま文庫>,2011年)
- 松下芳男『乃木希典(人物叢書 新装版)』(吉川弘文館,1985年)
- 柳生悦子『史話 まぼろしの陸軍兵学寮』(六興出版,1983年)
- 学習研究社編集『日露戦争――陸海軍,進撃と苦闘の五百日(歴史群像シリーズ24)』(学習研究社,1991年)
*1:佐々木[2005]431頁
*2:「心得」とは,下級者が上級職を務める際に用いられた役職名。大濱[2010]38頁
*3:大濱[2010]38頁以下,佐々木[2005]431頁
*5:大濱[2010]39頁以下
*6:大濱[2010]48頁以下,佐々木[2005]125頁以下
*8:大濱[2010]54頁,佐々木[2005]125頁以下
*9:福田[2007]74頁以下
*10:福田[2007]76頁,中西[2010]16頁
*11:この書簡は,福原の上官である山縣有朋が書かせたものといわれます。福田[2008]19頁
*12:大濱[2010]71頁以下参照。福田[2007]77頁以下は,福原の書簡の内容が一方的であるとして希典を擁護しています。