乃木希典伝(9)―日露戦争へ―
日露戦争へ
復職して第三軍司令官に就任
日本は,日清戦争後,朝鮮半島への進出を強め,同じく朝鮮半島を勢力下におこうとするロシア帝国と対立を深めていきました。
日本とロシアは外交交渉による解決を模索しましたが,明治36年(1903年)8月から始まった交渉は,翌明治37年(1904年)2月6日,日本がロシアに対して国交断絶を通知することで終わりました。
その際,日本は,ロシアに対し,
独立ノ行動ヲ取ルコトノ権利
を宣言。すなわち,軍事行動を執ることを宣言した上で,2月8日,日本海軍聯合艦隊は旅順港内にいたロシア帝国太平洋艦隊を攻撃し,日露戦争が事実上開戦となりました*1。
その開戦を目前にした2月5日,希典に対して動員令が下りました。
現役復帰の命令です。
希典が任じられたのは,留守近衛師団長でした。
希典はこの人事に不満がありました。
前線の師団ではなく,後備任務の師団に回されたからです*2。
しかし,明治37年(1904年)5月2日,希典は,新たに編成された「第三軍」の司令官に任命されました。
希典が待ち望んだ前線での任務です。
希典はこの職を大変喜びました。
希典は,東京出立の際,見送りに来た野津道貫*3に対し,
どうです,若返ったように見えませんか?どうも白髪が,また黒くなってきたように思うのですが」
と述べたといわれます*4。
なお,希典の第三軍司令官用に関して,山縣有朋による推薦ということもあり,各軍司令官のうち長州出身者が薩摩出身者に比較して少数だったので,両者を同数にするという藩閥政治的配慮の下決定されたという主張もあります*5。
しかし,旅順要塞攻撃計画が決定された明治37年(1904年)3月14日当時における陸軍大将のうち,山縣有朋*6,大山巌*7,桂太郎*8,黒木為楨*9,奥保鞏*10,岡沢精*11,長谷川好道*12,西寛二郎*13,児玉源太郎*14,山口素臣*15,小川又次*16は既に重職にあったり動員されていたりしたため異動は困難でした。
また,野津道貫*17は大山(62歳)よりも年上(63歳)の「別格」であって,大山の方が先任であるとはいえ,その下につくのは考えがたく*18,佐久間左馬太は落馬による怪我がもとで休職中であって健康ではありませんでした。
こうなると,先任順からいって希典が第三軍司令官に就任することは自然なことでした*19。
長男・勝典の死
明治37年(1904年)5月27日,長男・勝典が南山の戦いにおいて戦死しました。
勝典の死は新聞でも報道されました*20。
希典は,中国大陸へ渡る途上の広島において勝典の訃報を聞きました。
訃報に接した希典は,東京にいる妻・静子に
勝典,名誉の戦死,満足す,あと文
という電報を送りました*21。
希典は,明治37年(1904年)6月1日,勝典を弔う間もなく,広島の宇品を出航し,中国大陸へ出発しました。*22。
金州城外,斜陽に立つ。
第三軍は,第2軍に属していた第1師団(東京),第9師団(金沢)及び第11師団(善通寺)を基幹として編成されました。
編成目的は,旅順要塞の攻略です*23。
希典は,明治37年(1904年)6月6日,遼東半島の塩大澳に上陸しました。
そして,このとき,大将に昇進しました*24。
希典は,同月7日,金州・南山を巡視します。
ここは,長男・勝典が戦死した場所です。
希典は,戦死者の墓標にビールを献じ,後に「乃木三絶」の一つに数えられる以下の漢詩「金州城外の作」を詠みました。
山川草木轉荒涼(山川草木?転 た荒涼)
十里風腥新戰場(十里?風腥 し?新戦場 )
征馬不前人不語(征馬前 まず?人語らず)
金州城外立斜陽(金州城外?斜陽に立つ)
「旅順攻囲戦」に続く。
(1)から(13)まで通読したい場合には,「乃木希典伝(全)」へ。
参考文献
- 大濱徹也『乃木希典』(講談社<講談社学術文庫>,2010年)
- 岡田幹彦『乃木希典――高貴なる明治』(展転社,2001年)
- 桑原嶽『名将 乃木希典――司馬遼太郎の誤りを正す(第5版)』(中央乃木会,2005年)
- 桑原嶽『乃木希典と日露戦争の真実 司馬遼太郎の誤りを正す』(PHP研究所<PHP新書>,2016年)
- 小堀桂一郎『乃木将軍の御生涯とその精神――東京乃木神社御祭神九十年祭記念講演録』(国書刊行会,2003年)
- 佐々木英昭『乃木希典――予は諸君の子弟を殺したり――』(ミネルヴァ書房,2005年)
- 司馬遼太郎『坂の上の雲(4)(新装版)』(文藝春秋<文春文庫>,1999年a)
- 司馬遼太郎『坂の上の雲(5)(新装版)』(文藝春秋<文春文庫>,1999年b)
- 司馬遼太郎『殉死(新装版)』(文藝春秋<文春文庫>,2009年)
- 戸川幸夫『人間 乃木希典』(学陽書房,2000年)
- 徳見光三『長府藩報国隊史』(長門地方資料研究所,1966年)
- 中西輝政『乃木希典――日本人への警醒』(国書刊行会,2010年)
- 乃木神社・中央乃木會監修『いのち燃ゆ――乃木大将の生涯』(近代出版社,2009年)
- 半藤一利ほか『歴代陸軍大将全覧 明治篇』(中央公論新社<中公新書ラクレ>,2009年)
- 福田和也『乃木希典』(文藝春秋<文春文庫>,2007年)
- 長南政義『新資料による日露戦争陸戦史~覆される通説~』(並木書房,2015年)
- 別宮暖朗『旅順攻防戦の真実――乃木司令部は無能ではなかった』(PHP研究所<PHP文庫>,2006年)
- 別宮暖朗『日露戦争陸戦の研究』(筑摩書房<ちくま文庫>,2011年)
- 松下芳男『乃木希典(人物叢書 新装版)』(吉川弘文館,1985年)
- 柳生悦子『史話 まぼろしの陸軍兵学寮』(六興出版,1983年)
- 学習研究社編集『日露戦争――陸海軍,進撃と苦闘の五百日(歴史群像シリーズ24)』(学習研究社,1991年)
*1:横手[2005]114頁~115頁。なお,国交断絶と宣戦布告とを別異に考えていたロシアは日本の「不意打ち」を非難しましたが,当時の国際法上,宣戦布告以前における攻撃は違法でなく,しかも,ロシアは交渉を引き延ばして極東の軍備を増強していたので,その主張は,一見筋は通っているものの,あまり説得力のないものでした。同書115頁参照。
*2:大濱[2010]142~143頁参照
*3:陸軍大将,軍事参議官。後の第4軍司令官
*4:大濱[2010]144頁,佐々木[2005]53頁以下参照
*8:総理大臣
*9:第1軍司令官
*10:第2軍司令官
*13:第2師団長。動員発令済につき転出困難。
*15:大将任官は3月17日。既に胃がんに冒されており,8月に死去。
*16:第4師団長。動員発令済につき転出困難。
*17:軍事参議官。
*18:とはいえ,6月には,新たに編成された第四軍の司令官に就任し,大山の下で軍を指揮することになります。
*19:長南[2015]516頁以下
*20:佐々木[2005]54頁以下参照
*21:岡田[2001]99頁
*22:佐々木[2005]434頁参照
*23:岡田[2001]98頁,学習研究社[1991]49頁参照
*24:佐々木[2005]434頁参照