乃木希典 入門

乃木希典の伝記。その生涯と評価について。

乃木希典について出典を明らかにしつつ書いています。

乃木希典の伝記:「乃木希典伝(全)

乃木希典の評価などに関する主な記事の一覧:「『乃木希典入門』について

乃木希典伝(10)―旅順攻囲戦―

  1. 攻略難航――第1回総攻撃――
  2. 「正攻法」の採用――第2回・第3回総攻撃――
  3. 希典に対する非難
  4. 203高地攻撃と児玉源太郎の訪問
  5. 次男・保典の死
  6. 203高地占領
  7. 旅順陥落
  8. 水師営の会見

旅順攻囲戦

旅順攻囲戦における乃木希典の能力・評価については「旅順攻囲戦――乃木希典は愚将か――」を参照して下さい。

攻略難航――第1回総攻撃――

希典率いる第三軍は,明治37年(1904年)6月26日から旅順要塞に向けて進軍を開始しました。

第三軍は,旅順要塞の前進陣地を攻略し,同年8月上旬までには旅順要塞の包囲を完成させました*1

明治37年(1904年)8月7日,第三軍は第1回目の総攻撃を行い,同年10月26日には第2回目の総攻撃を,同年11月26日に第3回目の総攻撃を行いました*2

また,「白襷隊」という決死隊による突撃も敢行されました*3

第1回総攻撃では「強襲法」が採用されました。
強襲法とは,入念な準備射撃*4の後に要塞へ突撃し,これを突破する戦術です。
当時は,戦車も航空機もなく,浸透戦術・縦深戦術も未発達な時代だったので,この強襲法が要塞攻略の一般的な戦術だったのです。

野砲による砲撃を中心とした準備射撃によって要塞の守備力は低下しているはずでした。

ところが,旅順要塞は,銃器の射程などを考慮して巧みに配置された複数の堡塁(歩兵の防御・出撃拠点となる構造物)を塹壕で結んだ近代要塞であり,堡塁を砲撃されても塹壕の機能は損なわれず,守備力は低下していませんでした。
また,堡塁もベトン(コンクリート)で固められており,日本軍の準備射撃に対しても十分な守備力を発揮しました。

そうとは分からない日本軍は,要塞の守備力が低下したことを前提に,要塞の全面から攻撃を行いました。
これに対し,ロシア軍は豊富な銃火器(特に機関銃)を駆使して反撃しました。
この反撃によって,第三軍は1万6000人もの死傷者を出しました。

日本軍は複数の堡塁を奪取し,前進を果たしましたが,甚大な被害を生じ,総攻撃を中止しました。

こうして,第1回総攻撃は失敗したのです。

日清戦争においては1日で陥落した「自称・難攻不落」の旅順要塞は,ロシア軍によって,名実共に「難攻不落」の要塞へと変貌していたのです*5

「正攻法」の採用――第2回・第3回総攻撃――

第1回総攻撃の失敗を踏まえて,希典率いる第三軍は戦術を切り替えました*6。ロシア軍の堡塁の手前まで塹壕*7をジグザグに掘り進めて突撃陣地を構築し,そこから攻撃を行う「正攻法」に切り替えて旅順要塞を攻め続けました*8

正攻法の採用について,第三軍の参謀らはこれに反対しました。
しかし,最終的には,希典自らが正攻法の採用を決定したのです*9

正攻法の採用によって,第三軍の損害率はかなり減少しましたが*10塹壕の掘削には時間を要することもあり,旅順要塞は容易には陥落しませんでした。

明治37年(1904年)10月26日,第2回総攻撃が敢行されました*11

9月に到着した28センチ砲*12の活躍もあり*13,前線は着実に押し上げられ,彼我の損害(死傷者数)は逆転しました*14
しかし,堡塁1つを攻略したに留まり,要塞全体の攻略にはほど遠い戦果しか得られませんでした。

同年11月26日には第3回総攻撃が行われましたが,それでも旅順要塞を陥落させることはできませんでした。

続いて行われた決死隊「白襷隊」による夜襲は,第一次世界大戦中盤に考案された浸透戦術を先取りするようなものでしたが,結果としては失敗しました*15

希典に対する非難

旅順要塞の早期陥落を楽観していた日本軍の内部においては,希典を非難する声があがり,「乃木更迭論」も浮上しました。
しかし,明治天皇が,御前会議において

乃木を替えてはならぬ

と述べたことから,希典が更迭されることはなかったと謂われます*16

あるいは,乃木更迭論を耳にされた明治天皇が,参内した山縣有朋に対し,

乃木をやめさせてはならぬ。だれが乃木のあとを継ぐのか。そういう者がおると言うのか。

と述べられたとも謂われています*17

しかし,実際は,希典だけを更迭するという提案はされておらず,旅順要塞攻略後に第三軍司令部をまるごと復員させて解体してしまうという実質的な更迭案があったようです。
しかし,この更迭案も,旅順陥落後の明治38年(1905年)1月2日,児玉源太郎が了承する寸前に,満州軍作戦主任参謀・松川敏胤が,第三軍司令部復員の話は旅順陥落前に議論されていた問題であって,今,これを実行することは後に禍根を残します。と助言した結果,旅順要塞攻略という功績を挙げた第三軍司令部を更迭して恥をかかせることは不要であるとして見送られました*18

希典に対する批判は国民の間にも広まりました。
乃木邸に向かって投石したり,罵声を浴びせたりする者も現れました。
また,希典の辞職や切腹を勧告する手紙は,2400通も届けられました*19

203高地攻撃と児玉源太郎の訪問

希典率いる第三軍は,第3回総攻撃の翌日である明治37年(1904年)10月27日,攻略目標を203高地に変更しました。

その直後である12月1日,児玉源太郎が第三軍司令部を訪れました。
児玉は,第三軍の指揮権を児玉が預かるという満州軍装司令部の命令書を懐中に携えていました。
しかし,結局,この命令書は使用されず,希典が引き続き指揮を執りました*20

児玉は,第三軍の参謀たちをひとしきり叱り飛ばした後,主として以下の2点3点を指示しました*21

  1. 重砲隊を高崎山に配置転換(203高地を支援するロシア軍の拠点となっていた椅子山を制圧するため)。
  2. 203高地占領後,15分ごとに28センチ砲で砲撃し,敵の逆襲に備える。
  3. 20人~30人で構成する増援隊を203高地陥落まで繰り返し投入する「肉弾戦」の採用。

ただし,上記3点は,児玉が第三軍の参謀たちに203高地の攻略法を質問し,参謀たちがこれに回答するという形で決定されたものであって,児玉が明確に指示したものではありませんでした。

なお,203高地占領後に28センチ砲で断続的な砲撃を加えることについて,攻城砲司令部部員の奈良武次が「友軍に危険なり」と不同意を唱えたのに対して,児玉が,「砲撃は味方打ちを恐れず」と答えた,という児玉の果断を賞賛する逸話は,『坂の上の雲』にも登場し*22,人口に膾炙しています
しかし,奈良本人の回想によれば,同士討ちを恐れずに砲撃を加えるべきと主張したのは奈良であり,これを聞いた児玉は,第7師団長・大迫尚敏の意向を尋ね,大迫が「やむを得ない」と答えた,とされています*23

また,『坂の上の雲』は,児玉が希典から第三軍の指揮権を「借用」し,直接指導したことによって203高地を陥落させたという物語になっています*24

ともかく,多大な損害を前にうちひしがれていた希典と長時間話し合いを行い,激励したことは,希典にとって大きな助けになりました。

次男・保典の死

203高地での戦いが激化する明治37年(1904年)12月1日,第1師団後備歩兵第1旅団の副官として旅順攻囲戦に参加していた希典の次男・保典は,伝令の途中で敵弾に当たって戦死しました*25*26

保典の戦死を聞いた希典は,「よく戦死してくれた。これで世間に申し訳が立つ。」と述べたといいます*27

希典は,日露戦争において長男及び次男を相次いで亡くしました。
希典に対する同情は日本国民の間に広がり,後に,

一人息子と泣いてはすまぬ,2人なくした人もある

という俗謡が流行しました*28

203高地占領

明治37年(1904年)12月5日,日本軍はついに203高地を占領しました。
日本軍が奪取してはロシア軍が取り返すということを幾度か繰り返した後の占領でした。

203高地の攻防においてロシア軍は予備兵力を使い果たしました
しかし,それからも戦闘は続きました。

第三軍の目的は旅順要塞の攻略であり,203高地を占領しただけではその目的を達成したとは言えないからです。

なお,203高地占領後,ここに観測所が設けられ,旅順港内に停泊するロシアの艦隊に砲撃が行われました*29
このとき,日本軍は知るよしもありませんでしたが,停泊中の艦船はいずれも先の黄海海戦において上部構造が破壊されて機能を喪失しており,事実上「撃沈」されていました*30
そこに,日本軍からの砲撃が始まりました。
ロシア軍の艦船は,日本軍による鹵獲を防ぐため,キングストン弁を自ら開いて自沈し,さらには爆破されました*31

旅順陥落

203高地占領後も,ロシア軍は頑強に抵抗を続けましたが,203高地での兵力損耗が激しく,要塞を防御するには兵員が減少しすぎていました。

明治38年(1905年)1月1日午後3時,日本軍は旅順の旧市街・新市街・港湾を望む望台を占領しました。
膨大の占領によって旅順要塞はようやく機能を喪失しました。

望台占領を受けて,旅順要塞司令官ステッセルは,第三軍に対して降伏書を送付し,1月1日午後4時,第三軍総司令部がこれを受領・受諾しました。
そして,翌2日,戦闘が停止され,旅順要塞は陥落したのです*32
203高地攻略から旅順陥落まで,約1か月を経過していました。

希典の人格は,旅順を攻略する原動力となりました。
希典の下で戦った桜井忠温は,

乃木のために死のうと思わない兵はいなかったが,それは乃木の風格によるものである。

と述べています*33

水師営の会見

明治38年(1905年)1月5日,旅順要塞を陥落させた希典は,要塞司令官であったステッセルと会見しました。
この会見は,水師営にあった民家で行われたため,水師営の会見といわれます。

この会見に先立って,明治天皇は,山縣有朋を通じて,希典に対し,祖国ロシアのため尽力したステッセルの武人としての名誉を確保するよう要請しました*34
希典は,明治天皇の要請どおり,ステッセルに対して紳士的に接しました。

例えば,降伏する際に帯剣することは許されないのが通常ですが,希典は,ステッセルに帯剣を許しました*35
また,従軍記者たちが再三にわたって写真撮影を要求しましたが,希典はステッセルの名誉を守るため,わずか1枚を除いて写真撮影を許しませんでした*36

旅順要塞を陥落させた武功と併せて,水師営の会見における希典の紳士的な態度は世界的に報道され,賞賛されることとなります*37

また,この会見を題材とした唱歌水師営の会見』は,日本の国定教科書に掲載された*38

希典は,明治38年(1905年)1月13日,旅順要塞に入城しました。
そして,同月14日,旅順攻囲戦において戦死した将兵の招魂祭を挙行し,自ら起草した祭文を泣きながら奉読しました。
そうした希典の姿は,日本語の分からない観戦武官及び従軍記者らをも感動させ,従軍記者らは,こぞって祭文の意訳を求めたといいます*39

また,希典は,旅順で戦死した部下たちを思い,漢詩を詠みました。
なお,爾霊山にれいさんとは,203高地のことです。
旅順陥落後,標高が203メートルであることから「203高地」とだけ呼ばれていた丘に,激戦地に相応しい名称を付そうという話になった際,希典が名付けました。

爾靈山嶮豈攀難爾霊山にれいさん?けんなれどもがたからんや)
男子功名期克艱(男子の功名?克艱こっかん/rt>を期す)
鐵血覆山山形改(鉄血?山を覆いて?山形?改まる)
萬人齊仰爾靈山(万人?ひとしく仰ぐ?爾霊山

奉天会戦」に続く。
(1)から(13)まで通読したい場合には,「乃木希典伝(全)」へ。

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参考文献

  1. 大濱徹也『乃木希典』(講談社講談社学術文庫>,2010年)
  2. 岡田幹彦『乃木希典――高貴なる明治』(展転社,2001年)
  3. 桑原嶽『名将 乃木希典――司馬遼太郎の誤りを正す(第5版)』(中央乃木会,2005年)
  4. 桑原嶽『乃木希典日露戦争の真実 司馬遼太郎の誤りを正す』(PHP研究所<PHP新書>,2016年)
  5. 小堀桂一郎『乃木将軍の御生涯とその精神――東京乃木神社御祭神九十年祭記念講演録』(国書刊行会,2003年)
  6. 佐々木英昭乃木希典――予は諸君の子弟を殺したり――』(ミネルヴァ書房,2005年)
  7. 司馬遼太郎坂の上の雲(4)(新装版)』(文藝春秋<文春文庫>,1999年a)
  8. 司馬遼太郎坂の上の雲(5)(新装版)』(文藝春秋<文春文庫>,1999年b)
  9. 司馬遼太郎『殉死(新装版)』(文藝春秋<文春文庫>,2009年)
  10. 戸川幸夫『人間 乃木希典』(学陽書房,2000年)
  11. 徳見光三『長府藩報国隊史』(長門地方資料研究所,1966年)
  12. 中西輝政乃木希典――日本人への警醒』(国書刊行会,2010年)
  13. 乃木神社・中央乃木會監修『いのち燃ゆ――乃木大将の生涯』(近代出版社,2009年)
  14. 半藤一利ほか『歴代陸軍大将全覧 明治篇』(中央公論新社中公新書ラクレ>,2009年)
  15. 福田和也乃木希典』(文藝春秋<文春文庫>,2007年)
  16. 長南政義『新資料による日露戦争陸戦史~覆される通説~』(並木書房,2015年)
  17. 別宮暖朗『旅順攻防戦の真実――乃木司令部は無能ではなかった』(PHP研究所<PHP文庫>,2006年)
  18. 別宮暖朗日露戦争陸戦の研究』(筑摩書房ちくま文庫>,2011年)
  19. 松下芳男『乃木希典人物叢書 新装版)』(吉川弘文館,1985年)
  20. 柳生悦子『史話 まぼろしの陸軍兵学寮』(六興出版,1983年)
  21. 学習研究社編集『日露戦争――陸海軍,進撃と苦闘の五百日(歴史群像シリーズ24)』(学習研究社,1991年)

*1:松下[1960]142~143頁参照

*2:明治37年(1904年)9月19日の攻撃を第2回総攻撃とする説もあります。佐々木[2005]434頁参照

*3:大濱[2010]146頁以下参照

*4:要塞の施設と守備兵に損害を与えることを目的に行われる攻撃

*5:ロシア軍によって構築された旅順要塞は,しばしば「永久要塞」といわれます。しかし,旅順要塞を含め,近代要塞の防御の要は塹壕であり,堡塁やトーチカがコンクリート製であるか否かは決定的ではありません。旅順要塞は,『野戦築城』の対義語である『永久築城』による要塞という意味では「永久要塞」ですが,現実にはそれ以上の意味は無く,ロシア軍の願望を表したものに過ぎないと評されます。別宮[2006]74頁参照

*6:明治37年(1904年)9月19日の攻撃から転換。

*7:対壕,突撃壕といいます。

*8:近代要塞に対して塹壕戦を挑むということ自体,人類史上初めてのことでした。従って,要塞攻略のための戦法といえば「強襲法」であり,これこそがその時点における「正攻法」であったのではないでしょうか。「正攻法」とは後付けの名前に過ぎないように思います「正攻法」は,当時から強襲法に対置される言葉として用いられていましたので,削除しました。

*9:岡田[2001]111頁以下,114頁参照

*10:岡田[2001]111頁以下,114頁参照

*11:この日の攻撃を「総攻撃」と考える立場からは、明治37年(1904年)9月19日の攻撃を「第2回総攻撃の前哨戦」と捉えます。

*12:二十八サンチ砲,二十八糎砲と記載されることもあります。

*13:堡塁を直撃しても堡塁そのものを破壊することはできませんでしたが,堡塁内のロシア兵を効果的に殺傷することができました。別宮[2006]192頁

*14:日本軍:死者1092名,負傷者2782名 ロシア軍:死者616名,負傷者4453名

*15:希典は,出撃する白襷隊の面々に対し,泣きながら握手し,「死んでくれ,死んでくれ」と声を掛けていきました。岡田[2001]130頁

*16:佐々木[2005]65頁以下参照

*17:長南[2015]533頁。他方,明治天皇の侍従であった日野西資博の回想として,明治天皇乃木も,アー殺しては,どもならぬと述べられたという記録もあります。同書534頁参照

*18:長南[2015]534頁以下

*19:岡田[2001]119頁,佐々木[2005]64頁,半藤ら[2009]189頁参照

*20:陸軍省編『明治軍事史 下』1447~1448頁所収の「総参謀長派遣に関する訓令」には,「余は第三軍の攻撃指導に関し要すれば満州軍装司令官の名を以て第三軍に命令することを貴官に委す」との記載があり,満州軍装司令官・大山巌が,総参謀長である児玉に対し,第三軍の指揮権を委ねた旨が記載されています。しかし,その文頭には「本訓令は之を実施するに至らずして止む,12月13日総司令参謀長帰部の翌日総司令官に返納せらる」と朱書きされています。

*21:長南[2015]495頁~496頁。なお,岡田[2001]142頁は,増援隊については触れていません。

*22:司馬[1999b]102頁~104頁。ただし,『坂の上の雲』では,奈良ではなく,佐藤鋼二郎歩兵中佐と児玉とのやりとりということになっています。『坂の上の雲』のネタ本である谷寿夫『機密日露戦争史』では,奈良と児玉とのやり取りになっています。

*23:長南[2015]496頁~497頁

*24:司馬[1999b]92頁

*25:松下1960,176頁参照

*26:松下[1960]151頁参照

*27:岡田[2001]121頁,佐々木[2005]69頁以下参照

*28:佐々木[2005]18頁参照

*29:別宮[2006]212頁

*30:別宮[2006]291頁

*31:別宮[2006]296頁

*32:学習研究社1991,48頁以下,70頁以下参照

*33:岡田[2001]161頁参照

*34:岡田[2001]162頁

*35:岡田[2001]163頁以下参照

*36:岡田[2001]166頁,半藤ら[2009]192頁

*37:佐々木[2005]76頁以下

*38:佐々木[2005]160頁

*39:岡田[2001]170頁,佐々木[2005]71頁,434頁以下