大正天皇と乃木希典
「信仰」といえるほどの強い畏敬の念も抱いていました。
明治天皇も乃木を信頼していました。
明治天皇は,迪宮裕仁*1親王(後の昭和天皇)の養育のため学習院院長に就任させ,御製の和歌を贈りました。
いさをある 人を教への 親として おほし立てなむ 大和なでしこ
乃木の薫陶を受けた昭和天皇も,後に乃木から大きな影響を受けたと語りました。
乃木の死を聞いた幼少の昭和天皇(迪宮)は涙を浮かべ,
「ああ,残念なことである。」
とおっしゃって大きくため息をつかれました*2。
このように,明治天皇及び迪宮(昭和天皇)と乃木との関わりについては様々なエピソードがあります。
これに対し,大正天皇と乃木とのエピソードは多くありません。
明治44年(1911年)11月19日,伊丹で行われた陸軍の演習を見学した明宮嘉仁*3親王(大正天皇)に対して説明を行ったのは,乃木でした*4。
しかし,大正天皇と乃木との間における特別なエピソードは伝えられていません。
明治天皇・迪宮(昭和天皇)との関わりがむしろ特別に濃密だったのでしょう。
しかし,大正天皇が乃木に対して無視を決め込んでいたわけではありません。
草長鶯啼日欲沈(草長び鶯啼いて 日沈まんと欲す)
芳櫻花下惜花深(芳桜花下 花を惜しむこと深し)
櫻花再發将軍死(桜花再び発いて 将軍死す)
詞裏長留千古心(詞裏長く留む 千古の心)
ここにいう「乃木希典惜花詞」とは,乃木が詠んだ以下の和歌です。
色あせて梢にのこるそれならで散りし花こそ恋しかりけれ
憶陸軍大将乃木希典
滿腹誠忠世所知(満腹の誠忠 世の知る所)
武勲赫赫遠征時(武勲赫々たり 遠征の時)
夫妻一旦殉明主(夫妻 一旦 明主に殉じ)
四海流傳絶命詞(四海 流伝す 絶命の詞)
ここにいう「絶命の詞」は,乃木が残した辞世の歌(以下)です。
神あがらいあがりましぬる大君のみあとはるかにをろかみまつる
現し世を神去りましし大君のみあと慕ひて我はゆくなり
乃木も漢詩をよく詠みました。
しかし,大正天皇が題材とした乃木の詩は,いずれも和歌でした。
乃木が死ななければ,生きながらえて元勲となっていれば,あるいは漢詩を交わすこともあったのかもしれません。
乃木は桂太郎とは全くそりが合いません。
大正天皇と乃木も,そりが合わなかったかも知れません。
大正天皇と乃木との交流の少なさは,むしろよいことだったかも知れません。