乃木希典伝(12)―学習院院長―
学習院院長
明治天皇による勅命
日露戦争終結からわずか8か月後の明治39年(1906年)7月23日,参謀総長であった児玉源太郎が急逝しました。
そこで,山縣有朋は,希典を後任の参謀総長にと明治天皇に内奏しました。
しかし,明治天皇はこれを許しませんでした。
明治40年(1907年)1月31日,希典は,陸軍大将のまま,学習院院長に任命されました。
明治天皇は,学習院に入学する自身の孫たち(後の昭和天皇ら)の養育を希典に託すため,学習院院長に指名したのです*1。
明治天皇は,希典の学習院院長就任に際して,以下の和歌をお詠みになりました*2。
いさをある 人を教への 親として おほし立てなむ 大和なでしこ*3
「乃木式」指導
希典は,当時の学習院の雰囲気を刷新すべく,学習院を全寮制として,生徒の生活について細部にわる指導を行いました。
希典は,剣道の教育を最重要視し*4,時には日頃の成果を見せよと言い,生徒に日本刀で生きた豚を斬らせることもありました*5。
こうした、希典の厳格で謹厳な教育方針は,「乃木式」と呼ばれました*6。
「乃木院長」の評判
乃木は,月に1,2回しか東京市赤坂区新坂町(後の東京都港区赤坂8丁目)の自宅に帰宅しませんでした。
学習院中等科及び高等科の全生徒と共に寄宿舎に寝泊まりしたからです。
希典は生徒に親しく声をかけたり,駄洒落を飛ばして生徒を笑わせたりしたので*7,学習院の生徒は希典を「うちのおやじ」と言って慕っていました*8。
その一方で,「乃木式」の教育方針に反感を抱く生徒もいました。
彼らは同人雑誌『白樺』に結集して,希典を『非文明的』と嘲笑しました。
これに対し,希典は,親交のあった森鴎外に助言を求めるなどしています*9。
裕仁親王(昭和天皇)の養育
希典は,明治41年(1908年)4月,迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)が学習院に入学される,勤勉と質素を旨としてその教育に努力しました。
裕仁親王は,希典を「院長閣下」とお呼びになりました。
長じて昭和天皇となられた裕仁親王は,後年,希典について,
『自身の人格形成に最も影響があった人物』
と評されました*10。
「殉死」に続く。
(1)から(13)まで通読したい場合には,「乃木希典伝(全)」へ。
参考文献
- 大濱徹也『乃木希典』(講談社<講談社学術文庫>,2010年)
- 岡田幹彦『乃木希典――高貴なる明治』(展転社,2001年)
- 桑原嶽『名将 乃木希典――司馬遼太郎の誤りを正す(第5版)』(中央乃木会,2005年)
- 桑原嶽『乃木希典と日露戦争の真実 司馬遼太郎の誤りを正す』(PHP研究所<PHP新書>,2016年)
- 小堀桂一郎『乃木将軍の御生涯とその精神――東京乃木神社御祭神九十年祭記念講演録』(国書刊行会,2003年)
- 佐々木英昭『乃木希典――予は諸君の子弟を殺したり――』(ミネルヴァ書房,2005年)
- 司馬遼太郎『坂の上の雲(4)(新装版)』(文藝春秋<文春文庫>,1999年a)
- 司馬遼太郎『坂の上の雲(5)(新装版)』(文藝春秋<文春文庫>,1999年b)
- 司馬遼太郎『殉死(新装版)』(文藝春秋<文春文庫>,2009年)
- 戸川幸夫『人間 乃木希典』(学陽書房,2000年)
- 徳見光三『長府藩報国隊史』(長門地方資料研究所,1966年)
- 中西輝政『乃木希典――日本人への警醒』(国書刊行会,2010年)
- 乃木神社・中央乃木會監修『いのち燃ゆ――乃木大将の生涯』(近代出版社,2009年)
- 半藤一利ほか『歴代陸軍大将全覧 明治篇』(中央公論新社<中公新書ラクレ>,2009年)
- 福田和也『乃木希典』(文藝春秋<文春文庫>,2007年)
- 長南政義『新資料による日露戦争陸戦史~覆される通説~』(並木書房,2015年)
- 別宮暖朗『旅順攻防戦の真実――乃木司令部は無能ではなかった』(PHP研究所<PHP文庫>,2006年)
- 別宮暖朗『日露戦争陸戦の研究』(筑摩書房<ちくま文庫>,2011年)
- 松下芳男『乃木希典(人物叢書 新装版)』(吉川弘文館,1985年)
- 柳生悦子『史話 まぼろしの陸軍兵学寮』(六興出版,1983年)
- 学習研究社編集『日露戦争――陸海軍,進撃と苦闘の五百日(歴史群像シリーズ24)』(学習研究社,1991年)