乃木希典 入門

乃木希典の伝記。その生涯と評価について。

乃木希典について出典を明らかにしつつ書いています。

乃木希典の伝記:「乃木希典伝(全)

乃木希典の評価などに関する主な記事の一覧:「『乃木希典入門』について

旅順攻囲戦――乃木希典は愚将か――

目次

  1. 軍人・乃木希典に対する評価
    1. 総論
    2. 本論考の構成
  2. 司馬遼太郎による乃木批判
  3. 「所詮は小説」,「小説に『反論』するのはおかしい」とは言えない。
    1. フィクションに対する反論?
    2. 『坂の上の雲』は「フィクションをいっさい禁じて」書かれた。
  4. 無能論・愚将論への反論
    1. 桑原氏・別宮氏による反論
    2. 児玉への指揮権委譲の有無について
    3. 司馬氏による乃木批判の問題点(小括)
  5. 乃木擁護論の積極的根拠
    1. 制約の中で示された進歩性
    2. 新たな戦術の考案
    3. 「客観的な」精神論
  6. 結論
  7. 二八センチ砲
  8. 参考文献

軍人・乃木希典に対する評価

総論

司馬遼太郎は,小説『殉死』及び『坂の上の雲』において,乃木希典を,戦下手な無能・愚将として描きました。
特に,多大な戦死傷者を出した旅順攻囲戦における乃木を酷評しました。

司馬氏の影響により,以降,乃木無能論・愚将論が定着しました。

しかし,司馬氏の記述及び司馬氏が底本とした谷寿夫『機密日露戦史』(通称・「谷戦史」には誤りが多く,これを基にした無能論・愚将論にはそもそも疑問があります。

また,21世紀に入って,『機密日露戦史』以外の資料・文献,特に乃木が率いた第三軍司令部の参謀たちの日誌などについての分析が進みました。

こうした研究の進展によって,乃木は必ずしも無能ではなく,むしろ当時の状況からすれば有能ともいえる働きをしていたことが分かってきました。

本論考の構成

本論考では,まず,司馬氏による乃木批判を概観します。

次に,本来はフィクションである小説を批判対象とすることの是非を検討します。

その上で,桑原嶽,別宮暖朗及び長南政義の論考を紹介しながら,乃木が無能・愚将であったとする主張に対する反論を検討します。

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司馬遼太郎による乃木批判

乃木が戦下手であり,無能・愚将であるという評価,「乃木愚将論」「乃木無能論」は,司馬遼太郎の2つの小説,『坂の上の雲』及び『殉死』によって世に広まりました*1
司馬氏は,昭和42年(1967年)に発表した『殉死』と昭和43年(1968年)から47年(1972年)にかけて産経新聞で連載した『坂の上の雲』において,以下のように,旅順攻囲戦における乃木を批判しました。

  • ヴォーバン*2が確立した要塞攻撃の大原則を,乃木は採用しなかった*3
  • ヴォーバンの要塞攻撃方法に関する書物を読了することが軍人の当然の義務であったにもかかわらず,乃木は,近代要塞に関する専門知識をもっていなかった*4
  • 乃木は司令部を過剰に後方へ設置し,若い参謀が前線に行くこともまれだったので,前線の惨状を知ることができず,適切な指揮ができなかった*5
  • 第1回総攻撃において,無謀な中央突破を図った*6
  • 当初から203高地を攻撃して,ロシア旅順艦隊を砲撃すれば,要塞自体を陥落させなくても,少ない損害で旅順攻囲戦の作戦目的を達成することができた。
    しかし,頑迷な乃木は,203高地の攻略を拒絶し*7,要塞攻略にこだわった*8
  • 旅順要塞は無視し,備えて抑えの兵を残せば十分であった*9*10
  • 乃木は,児玉源太郎に指揮権を委譲することで初めて203高地を攻略することができた。児玉は,203高地占領後はロシア軍による奪還を防ぐため同士討ちを恐れず28センチ砲を撃ち込めと命令した*11。児玉に指揮権を委譲しなければ,損害はより拡大していたはずである*12

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「所詮は小説」,「小説に『反論』するのはおかしい」とは言えない。

フィクションに対する反論?

司馬氏のこうした批判に対しては,様々な反論がされました。
その反論を見ていく前に,「そもそも,批判に値するのか?」という指摘にも言及しておきます。

司馬氏は小説家です。歴史学者ではありません。
そして,『坂の上の雲』は小説です。歴史学の論文ではありません。
そのことから,
「『坂の上の雲』は小説でありフィクションである。」
「小説というフィクションに反論するのはおかしい。」
「右翼の過剰反応だ。」
という指摘もあり得ましょう。

坂の上の雲』は「フィクションをいっさい禁じて」書かれた。

ところが,『坂の上の雲』は,フィクションではないのです。
司馬氏は,平成6年(1994年)の講演において,次のように述べています*13(下線強調はブログ著者)。

それにしても『坂の上の雲』は長大な作品で,しかもほんの最近の事件です。いい加減なことを書くわけにもいかないものですから,非常に神経を使って,ヘトヘトになりました。
小説というのは本来フィクションなのですが,フィクションをいっさい禁じて書くことにしたのです。特に海軍や陸軍の配置はですね,何月何日何時にこの軍艦,あるいは部隊はここにいたということを間違って書いたら,なんにもなりません。
もうひとつ困ったことがあります。
私は速成教育ではありましたが,士官の教育を受けましたから,陸軍の戦術は少しはわかりました。なんとか自分自身でやりました。たとえば旅順の攻撃のときだと,理想的な攻撃はこれで,実際の乃木さんの攻撃はこれでと,何枚も地図を書きつぶしました。

坂の上の雲』は,フィクションではなく,事実に基づいている,と司馬氏自身が言明しているのです。

そうである以上,その小説において描かれた「事実」そのものに誤りがある場合や,誤った「事実」に基づいて示された評価・解釈に対しては異議が述べられて然るべきです。
フィクションをいっさい禁じて書いた以上,「小説だから」ということで批判を免れることはできません。

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無能論・愚将論への反論

桑原氏・別宮氏による反論

司馬氏の乃木希典批判に対し,福田恆存「乃木将軍は軍神か愚将か」(『中央公論』昭和45年12月臨時増刊号)など,乃木を擁護する論陣が張られました。

特に,桑原嶽『名将 乃木希典(第五版)』(中央乃木会,2005年)*14及び別宮暖朗『旅順攻防戦の真実』(PHP文庫,2006年)は,以下のように述べて司馬氏に反論し,乃木を擁護しています。

また,長南政義『新資料による日露戦争陸戦史~覆される「通説」~』(並木書房,2015年)においても,司馬氏に対する反論という形ではありませんが,結果として,司馬氏の主張が否定されています。

  • 司馬氏が乃木を批判するために引用したヴォーバンの主張は,日露戦争当時,既に時代遅れであったから,これに従わなかった乃木を批判することは不当である。
    むしろ乃木は,当時のヨーロッパにおける主要な軍事論文を読破した理論派であった*15
  • 日露戦争当時,塹壕を突破して要塞を陥落させる方法は,ある程度の犠牲を計算入れて歩兵を突撃させる以外に方法がなかった。
    塹壕を用いた要塞(陣地)を突破する有効な戦術が考案されたのは第一次世界大戦中期である。
    日露戦争の時点における乃木が損害を生じさせたことは,やむを得なかった。
    損害の大きさを捉えて後世の観点*16から乃木を批判するのは不当である*17
  • 乃木率いる第3軍の司令部は,十分前線近くに設置されていた。
    第3軍の戦闘指令所が置かれた「団山子東北方高地」は,前線(東鶏冠山)まで直線距離にしてわずか3kmである。
    これは敵砲兵の有効射程内であり,戦況を手に取るように見える距離である。
    そのような距離であったからこそ,第3軍司令部は攻撃中止の判断も迅速に行うことができた*18
    実際にも,第3軍の参謀たち(井上幾太郎及び大庭二郎)は前線を偵察しており,その旨が参謀たちの日記に残されている*19
  • 旅順要塞に対して抑えの兵を残置し,乃木率いる第3軍は要塞を無視して北上することはできなかった。
    抑えの兵としては数が不足していたからであり,仮に「抑えの兵」を置いてこなければならないとすると,残置すべき兵力は4万ほどになる。
    そうすると,たとえ第3軍が北上して奉天会戦に参戦しても,史実どおりには活躍することはできなかったと思われる*20
  • 203高地を占領する以前から,南山坡山を観測所として,旅順艦隊に対する砲撃が行われていた*21。つまり,203高地がなくてもある程度は湾内への砲撃ができたのであり,203高地を第1目標とする必要はなかった。
  • 第1回総攻撃前に占領した大孤山から旅順港内への砲撃が開始されたことにより,旅順港内は,正確でないながらも砲弾が降る状況となり,軍港としての機能は喪失してしまっていた*22。やはり,203高地占領を第1目標とする必要はなかった。
  • 仮に,当初から203高地の攻略を第1目標に置いたとしても,被害の拡大は避けられなかったし*23,203高地を突破したところでさらなる防衛戦(太陽溝堡塁と椅子山堡塁とを結ぶ防衛戦)があった*24
  • 要塞の攻略に必要なのは,どの地点を占領するかではなく,どの地点で効率よく敵軍を消耗させることができるかにある。
    よって,203高地を主攻しなかったことをもって乃木を批判することはできない。
    実際,203高地を占領した後,旅順要塞が陥落するまで約1か月を要している*25*26
  • 大山巌児玉源太郎に第3軍の指揮権を与えるという書簡を書いたこと自体,非常識で事実かどうかも疑わしい*27
  • 児玉源太郎が第3軍に与えた指示は砲*28のわずかな陣地変換であり*29,攻撃計画の修正といえるほど劇的なものではなかった*30

児玉への指揮権委譲の有無について

なお,『大山巌児玉源太郎に第3軍の指揮権を与えるという書簡を書いたこと自体,非常識で事実かどうかも疑わしい。』という批判*31は,事実に反するものであることが判明しています。
陸軍省編『明示軍事史 下』1447~1448頁所収の「総参謀長派遣に関する訓令」には,以下のように,満州軍総司令官・大山巌が,総参謀長である児玉に対し,第3軍の指揮権を委ねる旨が記載されているからです。

余〔大山巌〕は第3軍の攻撃指導に関し要すれば満州軍装司令官の名を以て第3軍に命令することを貴官〔児玉源太郎〕に委す

ただし,この訓令の文頭には以下のとおり使用されなかったことが朱書きされており,『児玉源太郎が乃木から指揮権を委譲され,それによって203高地攻略に成功した』という司馬氏の主張もまた事実に反していたということになります。

本訓令は之を実施するに至らずして止む,12月13日総司令参謀長帰部の翌日総司令官に返納せらる

司馬氏による乃木批判の問題点(小括)

司馬氏の乃木に対する批判は,旅順要塞を攻める目的を取り違えるところから多くの誤りが発生しているように思われます。

旅順要塞は,攻略されなければなりませんでした。
抑えの兵を残す程度にして旅順要塞を放置すれば,バルト艦隊(バルチック艦隊)と旅順艦隊(ロシア太平洋艦隊)との合流を許し,「抑えの兵」と称する遊兵を生じさせることになる上,要塞防衛と同じ軍事的・政治的効果を生じ,外債発行にまで影響します*32

しかし,司馬氏は,旅順要塞攻略の目的を旅順艦隊の殲滅に局限して考えているように思われます。
すると当然,203高地を優先して攻撃・占領し,良質な観測所を確保することに重きを置いて考え,そうした戦略を採用しなかった乃木を批判することになります。
こうした司馬氏の考えは,旅順要塞を攻略しないことによる上記軍事的・政治的不利益を十分に考慮していないと思われます。

また,旅順要塞を攻略するという戦略は満州軍(大山巌児玉源太郎)の一貫した目標であり,太平洋艦隊とバルチック艦隊との合流阻止を至上命題とする海軍すらも,当初は旅順要塞攻略に同意していました。

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乃木擁護論の積極的根拠

制約の中で示された進歩性

以上のとおり,乃木に対する批判については反論が可能です。
他方,乃木を評価する積極的根拠としては,以下のようなものが主張されています。

別宮暖朗は,乃木率いる第3軍が,第1回総攻撃による被害が大きかったことを受けて,第2回総攻撃以降は突撃壕(対壕)を掘り進めて味方の損害を押さえる戦術(いわゆる「正攻法」)に転換していること評価すべきと主張しています*33
この戦術は,第一次世界大戦においてロシア軍のアレクセイ・ブルシーロフが実行したものです。
しかも,ブルシーロフが第3軍と同様の戦術を実行したのは,第一次世界大戦の初期ではありません。
第一次世界大戦の開戦後1年半ほど経過した後のことです。
それ以前の欧州各国陸軍はどうしていたかというと,第3軍が第1回総攻撃において採用したのと同様,準備射撃の後に突撃をかける「強襲法」でした。
こうしたことから,別宮は,日露戦争当時に上記戦術を採用した乃木は評価されるべきである,と主張しています*34

また,元防衛大学校教授・桑田悦は,第3軍幕僚の活動には問題もあったが,その責任を乃木だけに負わせるのは不当であり,乃木であればこそ,あの時期に旅順を攻略できたと述べ,乃木を評価しています*35

結局,第3軍が旅順要塞を陥落させた(防衛司令官・ステッセルに開城を決意させた)のは,203高地における激戦によってロシア軍に兵力を消耗させ,要塞を維持できないほどに兵力を失わせたからです*36

新たな戦術の考案

さらに,長南政義氏*37は,『新資料による日露戦争陸戦史~覆される通説~』(2015年,並木書房)において,以下の点を挙げ,乃木の能力を認めています。

  • 第3軍は,十分な増援を得ていれば,第1回総攻撃において望台を占領し,より早く旅順要塞を陥落させていた可能性がある。第1回総攻撃失敗の原因は,強襲法を採用したことではなく,兵力不足であり,その責任は日露戦争開戦前の参謀本部における敵情分析の不足にある。*38
  • 乃木は,第1回総攻撃において西北正面(203高地方面)を主攻としなかった。その理由は,敵前の平地で砲兵を展開しなければならず,後方に主防衛線が控え,その攻略に手間取る間に軍を二分される可能性もあったからである。その代わり,主攻砲兵の展開が容易であり,攻略することで要塞陥落に直結する東北方面を主攻とした。その際,日清戦争において日本軍が西北正面から攻めたことの裏をかく意図も有していた*39
  • 東北正面は,地理的に正攻法に適していた*40*41
  • 第3軍は,第1回総攻撃失敗後,正攻法に転換するのみならず,「参謀長之注意事項」*42を作成し,歩兵と砲兵との協同,特に,そのために海軍から取り寄せた47ミリ速射砲を第一線歩兵陣地に配置してロシア軍の機関砲を破壊する戦術を採用するなど,失敗に学び,開戦前は訓練すらされていなかった歩砲協同戦術の確立にすら成功した*43
  • 1日50名もの戦死傷者を生んでいた東・西盤龍山堡塁から撤退するとの提案があった際,乃木は,これを拒絶した。果たして,1週間後にはこれらの堡塁の防御工事が進捗し,損害が少なくなった上,以後の攻撃はこれらの堡塁を根拠として行われた。乃木の果断がその後の攻撃を容易にした*44
  • 第1次総攻撃失敗後,第3軍司令部において幕僚会議が行われ,参謀・井上幾太郎が提案した「正攻法への転換」について議論されたが,工兵第11大隊長・石川潔太のみが賛同し,各師団の参謀長はあくまで強襲法を主張した。午前10時から開かれた会議は午後4時になっても結論がでなかった。これに業を煮やした乃木は,正攻法の採用を決定し,旅順要塞攻略への途を開いた*45
  • 乃木は,第3回攻撃失敗後である明治37年11月10日,数個の堡塁を同時に攻撃する「総攻撃方式」を放棄し,一つの堡塁に攻撃を集中させるとともに,堡塁を攻撃する際には堡塁正面を爆破して内部に突入する戦術へと攻撃方法の大転換を行い,東鶏冠山北堡塁,二龍山堡塁及び松樹木山堡塁を相次いで陥落させた*46
  • 結果的に失敗に終わった特別予備隊「白襷隊」による夜襲は,バルチック艦隊日本海へ到達する前に旅順を陥落させる必要があり,その旨大本営及び海軍から執拗に迫られていた乃木(第3軍司令部)としては,やむを得ない選択だったし*47,白襷隊を投入した地点は要塞の弱点を突くものであり,適切だった*48

特に,長南氏は,「総攻撃方式」を廃止して一堡塁への集中攻撃という戦術に転換したことを重視し,以下のように述べて乃木の能力を高く評価しています。

先行研究は等閑視しているが,この戦術の転換は乃木の将器を証明するものといえるであろう。

「客観的な」精神論

また,長南氏は,「統率力」,「将器」といった精神的な側面についても言及しています。

  • 参謀・井上幾太郎の日記には,かなり無理な要求を行った(行わざるを得なかった)第1回総攻撃が失敗したにもかかわらず各師団長から不平があがらなかったのは,乃木の人格によるものであったとの記述がある。このことは,乃木の統率力を示す具体的事例である*49
  • 第3軍の幕僚が満州軍総司令部に対して砲弾の補給数を増加するよう望んでいたのに対し,乃木は,満州軍本体が沙河方面での決戦において敗退しては意味がないと考えていた。このことは,乃木が大局観を有していたことを示している*50

精神論というものは,得てして客観的証拠を補って(隠蔽して)望ましい結論に達しようというするときに使われがちです。

しかし,軍隊を構成するのは人間です。
人間は,精神的な生き物です。
ある組織のリーダーについて論じるとき,精神論は避けて通れません。

長南氏は,上記のとおり,参謀の日記や乃木の発言から,できる限り客観的に「統率力」・「将器」を論じて,悪しき精神論に陥らないよう注意しているように思われます。

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結論

乃木は,誤った判断をして,失敗しています。
例えば,白襷隊は,明確な失敗でした。
白襷隊に先進性を見出すことは後付けの感が否めず,全面的な擁護は難しいと思います。

しかしながら,乃木は,正攻法の採用を果断し,歩兵・砲兵の協同戦術を参謀たちとともに確立していきました。

与えられた条件(少ない兵数・少ない弾薬・少ない情報)の中で,戦術を転換するなど最善を尽くし,日露戦争全体を俯瞰しながら,旅順要塞を陥落させた乃木は,むしろ有能な軍人であったと,私は思います。

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二八センチ砲

最後に,二八センチ砲(二八サンチ砲,二八糎砲とも)について付言します。

旅順攻囲戦では,二八センチ砲による砲撃が大きな効果をあげました。
この二八センチ砲は,元来,東京湾に据え付けられていました。
これを,陸軍審査部長・有坂成章少将の発案により,旅順へ送ることとなったのです。

二八センチ砲の使用については,大本営の参謀次長・長岡外史少将は,電報をもって二八センチ砲を送る旨打診したところ,第3軍参謀長・伊地知幸介少将が「送るに及ばず」と返電してこれを断ったという逸話が人口に膾炙しています。

しかし,伊地知は,「送るに及ばず」とは返電していません。
実際のやりとりは以下のとおりです。

まず,長岡から伊地知に対し,以下のように,『要請があった弾薬を送るが,これ以上は送れない。節約して使って欲しい。攻城砲として二八センチ砲を送ろうと思うが,意見を聞きたい。』という電報が発せられます*51

貴官今日の電報に対し,十五サンチ臼砲を除き他の攻城砲の為約二万五百発を送る筈なり,最早此委譲重砲弾を送るべきものない,偏に節用を乞う。
攻城砲として二十八サンチ榴弾砲四門を送る。九月十五日頃大連湾に到着せしめんとす。これに対し意見あれば聞きたし。

これを受けて,伊地知は,以下のとおり,『(第2回総攻撃開始まで)二八センチ砲の到着を待ってはいられないが,今後のためにも送って欲しい。』と返電しました。つまり,結論としては,「送って欲しい」と返電しているのです。

二十八糎榴弾砲は其到着を待つ能わざるも,今後のために送られたし。

伊地知がこのような返答をしたのは,当時のセメント技術の問題がありました。
当時の日本におけるセメント(フランス語で「ベトン」)は,ローマンセメントからポルトランドセメントへと移行する時期でした。
ローマンセメントは天然セメントを使用することから固まるまでの時期が一定せず,1か月から2か月はかかると見ておくべきでした。
二八センチ砲の台座にはセメントを使用するので,送られてもセメントが固まるまでの1~2か月は使用できない,という前提知識をもって,上記のとおり,二八センチ砲の到着を「待てないが…」と返電したのです*52

しかし,実際には,ポルトランドセメントを使用した台座は,気温が高く湿度が低い旅順の気候も相まって,短期間で使用可能となりました。
伊地知(正確にはには,彼を補佐した第3軍の攻城兵司令官豊島少将)のコンクリートに対する豊富な知識が仇となって上記返電となり,さらには後世(=司馬氏)の誤解を招くことになったのです。

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参考文献

  1. 桑原嶽『名将 乃木希典――司馬遼太郎の誤りを正す(第5版)』(中央乃木会,2005年)
  2. 桑原嶽『乃木希典日露戦争の真実 司馬遼太郎の誤りを正す』(PHP研究所<PHP新書>,2016年)
  3. 佐々木英昭乃木希典――予は諸君の子弟を殺したり――』(ミネルヴァ書房,2005年)
  4. 司馬遼太郎坂の上の雲(4)(新装版)』(文藝春秋<文春文庫>,1999年)a
  5. 司馬遼太郎坂の上の雲(5)(新装版)』(文藝春秋<文春文庫>,1999年)b
  6. 司馬遼太郎『殉死(新装版)』(文藝春秋<文春文庫>,2009年)
  7. 長南政義『新資料による日露戦争陸戦史~覆される通説~』(並木書房,2015年)
  8. 別宮暖朗『旅順攻防戦の真実――乃木司令部は無能ではなかった』(PHP研究所<PHP文庫>,2006年)
  9. 別宮暖朗日露戦争陸戦の研究』(筑摩書房<ちくま文庫>,2011年)

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*1:佐々木[2005]66頁以下,中西[2010]30頁

*2:バスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバンは,17世紀に活躍したフランス王国の軍人で,ルイ14世に仕え,要塞攻略の名手として名を馳せるとともに,要塞建築についても手腕を発揮し,稜堡式城郭を発展させて建築法を精緻化・体系化しました。

*3:司馬[1999a]193頁

*4:司馬[2009]52頁以下

*5:司馬[1999a]182頁

*6:司馬[1999a]184頁

*7:司馬[1999a]201頁

*8:司馬[1999a]229頁,司馬[2009]78頁

*9:司馬[1999a]228頁

*10:これは『機密日本史』に記載された児玉源太郎の発言に依拠した主張です。別宮[2011]175頁

*11:坂の上の雲』のネタ本である谷寿夫『機密日露戦史』では,第3軍司令部の奈良武次が同士討ちの危険を指摘したのに対し,児玉が「砲撃は味方打ちを恐れず」と反論したとされています。しかし,長南[2015]496頁以下には,奈良武次の回想によると,同士討ちを恐れずに28センチ砲を撃ち込むべしと主張したのはほかならぬ奈良であり,児玉は奈良の発言を受けて第7師団長・大迫に意見を照会し,大迫も奈良の意見を受け入れた,という経緯を紹介しています。これが事実であれば,203高地攻略の見せ場の一つは,司馬氏(の元ネタとなった谷)の創作ということになります。

*12:司馬[1999b]132~133頁

*13:司馬遼太郎司馬遼太郎全講演[5]』2004年、朝日新聞出版、179頁

*14:桑原嶽『乃木希典日露戦争の真実』(PHP新書,2016年)として新書化されています。

*15:別宮[2006]93頁,346頁

*16:歴史については,その当時の倫理,常識及び技術・知識等の水準に照らして評価を加えるべきと考えます。そうでなければ,当時の人々が直面していない問題意識・規範を無理矢理押しつけて,結果ありきの批判をすることになります。それは,現代が優れているというおごりです。後世の観点から評価すべき場合というのは,そこから教訓を引き出す場合のように特殊な場面に限られるべきでしょう。

*17:別宮[2006]104頁以下

*18:桑原[2005]117頁,桑原[2016]135頁

*19:長南[2015]466頁

*20:別宮[2006]132頁以下参照。学習研究社[1991]101頁(桑田悦執筆部分)も同旨

*21:別宮[2006]188頁参照。桑原[2005]253頁,桑原[2016]288頁~299頁もほぼ同旨

*22:別宮[2011]183頁

*23:桑原[2005]137頁,桑原[2016]157頁

*24:別宮[2011]190頁

*25:桑原[2005]154頁,桑原[2016]187頁,別宮[2006]177頁,194頁以下,214頁以下

*26:203高地占領後,第3軍は攻撃を継続し,約1か月後,望台を占領しました。しかし,仮に初期の段階で望台を占領できたとしても旅順要塞は陥落しなかったと思われます。各堡塁・塹壕の相互作用によって突起部を奪回することが容易な近代要塞では,「ここさえ占領すれば要塞は墜ちる」という場所はないからです。(別宮[2011]185頁以下参照)

*27:桑原[2005]265頁以下,桑原[2016]302頁

*28:具体的には,12センチ榴弾砲15門,9センチ臼砲12門。28センチ榴弾砲は含まれていない。桑原[2016]306頁

*29:長南[2015]496頁は,秦郁彦氏の研究,田中国重及び白井二郎の回想に依拠した谷寿夫『機密日本戦史』から,児玉源太郎が第3軍に指示したのは,(1)重砲隊の陣地変換,(2)203高地占領後,28センチ砲による15分間隔の砲撃並びに(3)増援隊の連続投入による「肉弾」での203高地占領であるとしています。ただし,長南[2015]497頁は,これらの作戦は児玉から質問を受けた第3軍司令部の参謀たちが回答し,児玉が承認したものであるとしています。

*30:桑原[2005]265頁以下,桑原[2016]303頁以下

*31:桑原[2005]265頁以下,桑原[2016]302頁

*32:別宮[2011]175頁

*33:別宮[2006]181頁,328頁以下,341頁以下,別宮[2011]187頁

*34:別宮[2006]99頁,110頁。

*35:学習研究社[1991]103頁(桑田悦執筆部分)

*36:別宮[2011]197頁は,「乃木はドイツ式の決戦主義ではなく,ロシア軍を203高地において徹底的な消耗を誘うことにした。」と述べ,第三軍が203高地を戦力消耗の場に選んだとしています。桑原[2016]176頁も,「陣外決戦を強要できる場所」として203高地を選んだとしています。

*37:戦史研究家

*38:長南[2015]460頁以下

*39:前掲・463頁以下

*40:長南[2015]464頁。ただし,長南氏は,結果論ながらとの留保を付しています。

*41:もう一点,前掲・465頁は,結果論ではあるとしながら,西正面(203高地方面)は東北正面よりも堅固であり,東北正面を主攻としたことは正解であったとしています。

*42:前掲・500頁以下

*43:前掲・506頁

*44:前掲・528頁

*45:前掲・528頁~529頁

*46:前掲・499頁

*47:前掲・487頁

*48:前掲・488頁

*49:前掲・530頁~531頁

*50:前掲・531頁~533頁

*51:桑原[2005]244頁~245頁

*52:別宮[2006]281頁以下