乃木希典伝(全)
目次
- 幼少期
- 学問への道
- 軍人として
- 乃木「希典」の誕生
- 西南戦争――連隊旗喪失――
- 豹変――人生の一大転機――
- 日清戦争での活躍
- 台湾総督・四度目の休職
- 日露戦争へ
- 旅順攻囲戦
- 奉天会戦での活躍と凱旋
- 学習院院長
- 殉死
- 参考文献
幼少期
生い立ち
父は
江戸詰の長府藩士(馬廻り)で,石高は80石(後に150石に加増)*1でした。
乃木家は元来、医者の家系でした。
武芸を磨く希次がの姿が藩主の目にとまり、武士として取り立てられたのです。
そのため,希次は,周囲よりも武士らしくあることを自らに要求しました。
母は
幼名「無人」
希典の幼名は
この名前には,「無人」という縁起の悪い名前をつけ,かえって健康に成長するように,という願いが込められています*3。
乃木家の長男及び次男は夭折しており、世継がいませんでした。
こうした願いは、当時の武士の家にとっては切実なものだったのです。
上述のように,希次は江戸詰の藩士でした。
よって,無人は10歳まで江戸(長府藩上屋敷)で生活しました。
この屋敷は,かつて赤穂浪士の一人である武林隆重(武林唯七)ら10名が切腹するまでの間預けられた場所でした*4。
そうした縁から,希次は,無人に赤穂浪士の話をしばしば聞かせました。
これが、後の「乃木希典」の「武士道」の原点になったと思われます。
厳しい教育
無人は虚弱体質であり,臆病でした。
希次は、こうした希典に忸怩たる思いを抱いたのか、無人をあえて厳しく養育しました。
例えば,寒いと不平を言った希典に「寒いなら,暖かくなるようにしてやる。」と言って,井戸端で冷水をに浴びせかけるといった具合です*5*6。
長府へ下向・研鑽の日々
希次は,安政5年(1858年)11月,長府への下向並びに閉門及び減俸を命じられました。
希次が藩主の跡目相続に関して建白し,藩主の不興を買ったことが原因でした。
乃木一家は,同年12月,長府へ転居しました*7。
無人は,安政6年(1859年)4月,結城香崖に入門して,漢籍及び詩文を学びました。
また,万延元年(1860年)1月からは,流鏑馬,弓術,西洋流砲術,槍術及び剣術なども学び始め,文久2年(1862年)6月20日からは,集童場に入学して勉学に励みました。
このように、知識・教養を蓄えるのみならず、武芸にも研鑽した無人でしたが、依然として臆病・泣き虫で,妹にいじめられて泣くこともありました。
友人たちは、そうしたこうした無人に対し「無人はマコトに泣き人」と言ってからかいました*8。
学問の道へ
学者を志す。
無人は,文久2年(1862年)12月,元服して名を「源三」と改めました。
それから2年経った1864年(元治元年)3月,源三は一大決心をします。
武士としてではなく,学者として身を立てることを決心したのです。
源三は,その決意を父・希次に打ち明けました。
すると,源三の告白に対して,希次は猛烈に反対しました*9。
これに対して,源三は思い切った行動に出ました。
玉木文之進へ弟子入りするため,家出をしたのです。
出奔して玉木家へ
玉木文之進は,松下村塾の創設者です。
吉田松陰の叔父であり,師匠でもあります。
そして,玉木家は乃木家の分家であり,玉木文之進と希次とは友人でした。
そこで源三は,縁故を頼って玉木文之進へ弟子入りすることを決意し,希次の承諾はもちろん,玉木の同意も得ないまま,長府(現在の下関市)から玉木が住む萩へ押しかけたのです。
しかし,玉木は,源三が父・希次の許しを得ることなく出奔したことを責めました。
さらに,玉木は,「武士にならないのであれば農民になれ」と言い,源三の弟子入りを拒否しました。
学者の夢を否定された源三は落胆しました。
しかし,玉木の妻の取りなしで玉木家に住み込むことを許され,農作業を手伝うこととなりました*10。
そのうちに源三は,次第に学問の手ほどきを受けることを許されるようになりました*11。
明倫館文学寮に入学
源三は,1865年(慶応元年),長州藩の藩校である明倫館の文学寮に入学しました。
念願の学者への道が開けたことになります。
その一方で,源三は,同年11月から一刀流剣術も学び始め,後に目録を伝授されました*12。
軍人として
報国隊の結成と四境戦争への従軍
源三は,元治2年(1864年),集童場時代の友人らと盟約状を交わし,長府藩の青年武士たちが結成を目論んでいた戦闘部隊への参加を誓いました*13。
この戦闘部隊が,「長府藩報国隊」です。
報国隊は,青年武士や源三たち集童場の生徒らを中核とし、元治元年(1864年)2月14日,彼らの自主的な団結を長府藩が容認する形で結成され,以後,戊辰戦争を戦っていくことになります*14。
慶応元年(1865年),四境戦争(第二次長州征伐)が始まります。
源三は,同年4月,萩から長府へ呼び戻されました。
源三は,自ら参加を誓った長府藩報国隊に属し,山砲一門を受け持つ部隊を率いて小倉口の戦闘に加わり,奇兵隊の山縣有朋指揮下において戦いました。
この際,源三は,小倉城一番乗りの武功を挙げたといわれます*15。
四境戦争参戦後の慶応2年(1866年),源三は,長府藩の命に従って明倫館文学寮に復学しました。
復学したといっても,再び報国隊に所属して戦地に赴くことが予想されていました。
しかし,復学した源三は,講堂で相撲を取った際,左足を挫いてしまいました。
そのため,越後方面へと転戦した報国隊に加わることができなかったのです*16。
源三は,慶応4年(1868)1月,報国隊の漢学助教となりました。
他方,このころの報国隊は,越後方面での激戦を経て実戦経験豊富な戦闘部隊となり,隊士たちは各地を転戦して一体感を強めていました。
そうした報国隊の隊士たちは,戦争に参加しなかった源三を見下し,まともに教えを請おうとはしませんでした。
源三は,屈辱に耐えかねたのか,漢学助教の職を辞して上京しました*17。
迷走――将来への不安――
上京した源三は,従兄弟であり報国隊隊長であった御堀耕助を訪ね,御堀の従者としてでもよいからヨーロッパへ留学させて欲しいと 懇願しました。
洋行(海外留学)し,あくまで学問の道で身を立てようとしていたのでしょう。
しかし,御堀は,従者になってでも留学したいという源三の考えを卑屈であると非難しました。
その上で御堀は,留学したいのであれば自力で達成するよう述べるとともに,これからは武力が必要となる時代であるから軍人になるよう源三に勧めました。
この御堀の忠告によって,源三は軍人になることを決意しました*18。
源三は,慶応4年(1868年)11月,藩命によって伏見御親兵兵営に入営し,山内長人からフランス式訓練法を学びました*19*20。
この藩命は,御堀が周旋したものとみられています*21
なお,同時期、京都二条の仏式伝習所には,後に日露戦争でともに戦うこととなる児玉源太郎がいました。
源三は,明治3年(1870年)1月,山口藩で起こった反乱鎮圧のため一時帰藩した後,2月に帰営し,訓練に励みました。
その後、各兵営で訓練を受けた源三たちは「教導隊」と命名され、大阪城内玉造に新築された宿舎に移りました。
京都二条で訓練を受けた児玉たちは「第一教導隊」,伏見で訓練を受けた源三たちは「第二教導隊」とされました*22。
ところが,明治3年4月,源三は除隊を望むようになります。
「教導隊出身者は下士官にしかなれない」
という噂が飛び交ったからです。
果たして噂は本当で,明治3年4月3日に布告された「兵学令」において,教導隊が下士官養成を目的とすることが明確化されました*23。
源三は,教導隊を除隊して沼津兵学校へ移ることを希望しますが,除隊の許可が下りず*24,引き続き教導隊に所属し,明治3年7月には京都河東御親兵練武掛となりました。
明治3年6月以降,教導隊の隊員たちは教導隊を次々と卒業していきました。
児玉源太郎は六等下士官になるなど,卒業した隊員たちは次々と任官しました。
他方,源三は任官しないまま,12月23日,藩命により帰藩し,明治4年(1871年)1月10日,豊浦藩(旧・長府藩)の陸軍練兵教官となり,御親兵や鎮台兵の訓練にあたりました*25。
陸軍少佐に任官
やや不遇な境遇にあった源三ですが,転機が訪れます。
明治4年(1971年)11月23日,源三は,陸軍少佐に任官して,東京鎮台第二分営に配属されたのです*26。
弱冠22歳の源三が少佐に任官したことは異例でした。
この大抜擢は,源三が御堀耕助を通じて黒田清隆と知り合ったことが関係しているといわれます。
源三は,少佐任官を大変喜びました。
後に源三(乃木希典)は,少佐任官の日を回想して,「わしの生涯で何より愉快 じゃったのはこの日じゃ」と述べたほどです*27。
なお,源三は,このころから豪酒豪遊するようになり,放蕩生活が始まります*28。
乃木「希典」の誕生
改名「希典」
源三は,明治4年(1871年)12月,名を「希典」と改めました*29。
ここに,「乃木希典」が誕生したのです。
希典は,東京鎮台第三分営大弐心得*30及び名古屋鎮台大弐を歴任し*31,軍人として順調に歩み出しました。
しかし,明治7年(1873年)5月12日,希典は『家事上の理由』から辞表を提出して休職に入ります。
ところが,わずか4か月後の同年9月10日には陸軍卿伝令使*32として復職しました。
この休職と復職の真の理由は,はっきりとしません。
なお,陸軍卿伝令使となった時期の希典は,夜遊びが過ぎて山縣有朋から説諭を受けるほどでした*33。
秋月の乱を鎮圧
希典は,明治8年(1875年)12月,熊本鎮台歩兵第14連隊長心得に任じられ,小倉に赴任しました。
前任者の山田頴太郎は,後に萩の乱を起こす前原一誠の実弟でした。
前原一派に呼応して挙兵する可能性があったので,山田は連隊長を解任され,希典が後任にあたることとなったのです*34。
希典が連隊長心得に就任した後,希典の実弟である
玉木正諠は,前原一誠の一派に属しており,前原に同調するよう希典を勧誘しにきたのです
しかし,希典は勧誘には応じませんでした。
そして希典は,あくまで政府の軍人として,弟の件を含め,山縣有朋に前原一派の動静を報告しました*36。
翌明治9年(1876年),宮崎車之助らによる秋月の乱が勃発します。
西南戦争へと続いていく不平士族の反乱がついに始まりました。
希典は,他の反乱士族との合流を目論む宮崎らの動向を察知しました。
そこで,連隊を分け,豊津において宮崎らを挟撃し,反乱軍を潰走させました*37。
師・玉木の死
このとき,希典は,自らが率いる第14連隊を特に動かしませんでした。
萩の乱はほどなく鎮圧されましたが,実弟・玉木正諠は反乱軍に与して戦死し,学問の師である玉木文之進は,自らの門弟の多くが萩の乱に参加したことに対する責任をとって自害しました*38。
萩の乱の後,陸軍大佐・福原和勝は,希典に書簡を送り,秋月の乱における豊津での戦闘以外に戦闘を行わず,大阪鎮台に援軍を要請した希典の行為を非難しました*39。
これに対して希典は,福原に返書を送り,小倉でも反乱の気配があったことなどから連隊を動かさなかったことは正当であると説明しました。
この説明に,福原も納得したようです*40。
西南戦争――連隊旗喪失――
連隊旗喪失
明治10年(1877年),西南戦争が勃発しました。
希典は,同年2月19日,第14連隊を率いて熊本城を救援すべく,まず久留米に入ります。
そして,熊本城へ向かい,明治10年2月22日,熊本城の北方にある植木(後の熊本市植木町)付近に達しました。
しかし,西郷軍が熊本城を既に包囲していたので,第14連隊は熊本城へ入城できず,植木において西郷軍との戦闘に入ることとなりました。
このとき,希典率いる第14連隊の将兵は200名ほどに過ぎませんでした。
強行軍のため,脱落者が出ていたのです。
対する西郷軍は,第14連隊に倍する400名ほどでした*41。
乃木率いる第14連隊は,数に劣るものの善戦し,3時間ほど持ちこたえましたが,午後9時ころ,退却を余儀なくされました。
この退却の際,連隊旗を管理していた河原林少尉が討たれ,連隊旗を西郷軍に奪われるという「事件」が起こります*42。
このことは,後の希典(あるいは日本陸軍全体)にとって,重大な問題となります。
さて,この時期,九州にいた官軍は,熊本城において包囲されていた熊本鎮台兵と,希典率いる第14連隊だけでした。
第14連隊は,後詰めの官軍主力が到着するまで,九州で孤軍奮闘していたのです。
第14連隊は,植木での戦闘から数日しか経っていない明治10年2月23日,木葉において西郷軍との戦闘に入りましたが,ここでも数で劣る第14連隊は,苦戦の末,南関まで退却しました。
第14連隊は,同月25日にも西郷軍と戦い,ここでは勝利を収めます。
このようにして,第14連隊は,官軍主力の到着まで戦線を支えました*43。
死地を求める希典
希典は,官軍の実質的な総指揮官であった山縣有朋に対し,明治10年4月17日付けで,連隊旗喪失に関する処分を求める待罪書を送付しました。
これに対し,山縣は,希典の「罪」を不問に付す旨の指令書を返信しました*44。
しかし,希典は納得せず,自害を図りました。
教導隊以来の付き合いである児玉源太郎は,自害しようとする希典から軍刀を奪い取って説得し,自害を思いとどまらせたといわれます*45。
その後,希典は,重傷を負って歩行が困難になっても「畚もっこ」に乗って指揮を執り,野戦病院に入院しても脱走して戦地に赴こうとしました。
希典は,このときの負傷によって,左足がやや不自由となりました*46。
明治10年(1877年)4月22日,希典は中佐に昇進し,熊本鎮台の参謀となり,前線を離れました。
希典が前線指揮官の職から外れたのは,死地を求めるような希典の行動を耳にした明治天皇が指示したためともいわれています*47。
豹変――人生の一大転機――
放蕩生活の中での結婚
西南戦争の後,希典の放蕩がより一層激しくなりました。
自宅にいるよりも料亭にいる時間の方が長いといわれるほどでした。
こうした希典の放蕩ぶりは「乃木の豪遊」として有名になりました*48。
そんな放蕩三昧の希典でしたが,明治11年(1878年)10月27日,お七と結婚しました。
希典の母が結婚をしきりに勧めても希典は乗り気でなく,冗談だったのか,
薩摩*49の女なら結婚しましょう。
と言ったところ,本当に薩摩の女性・お七との縁談を持ってこられて結婚した,という話もあります。
ともかく,希典はお七と結婚。新居を東京・虎ノ門(東京都港区虎ノ門1丁目22番地)に新居を構えました。
そして,この際,お七は静子と改名し,「乃木静子」となりました。
しかし,希典は,刻限になっても祝言の席に現れません。
風采優美な偉丈夫として花柳界に知られていた希典は,料理茶屋に入り浸って遅刻したのです。
前途多難な家庭生活を容易に予想させる船出でしたが,明治12年(1979年)8月28日には長男・乃木勝典が生まれ,その年の冬には新坂町*50に転居しました。
また,明治14年(1881年)12月16日には次男・乃木保典が生まれました*51。
しかし,希典の放蕩生活は続きました*52。
ドイツ留学
希典は,明治16年(1883年)2月5日,東京鎮台参謀長に任じられました。
さらに,明治18年(1885年)5月21日には少将に昇進して,歩兵第11旅団長となりました*53。 そして,希典は,明治20年(1887年)1月,日本政府の命により,川上操六とともにドイツ帝国へ留学することになり,明治21年(1888年)6月10日までドイツに滞在しました*54。
希典たちは,ドイツ軍参謀総長ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケから参謀大尉・デュフェーを紹介され,彼から『野外要務令』に基づく講義を受けました。
また,希典は,ベルリン近郊の近衛軍に属して,ドイツ陸軍の全貌について学びました*55。
なお,ドイツ留学中,希典は森鴎外とも親交を深めました。
その交友関係は,終生続くこととなります*56。
帰国後の豹変
帰国した希典は,帰国後,復命書を大山巌に提出しました。
復命書は,作成名義こそ川上と希典の連名になっていますが,帰国後に川上が病気になったため,希典がほぼ単独で作成しました。
この復命書は,厳正な軍紀を維持するための軍人教育の重要性を説くもので,軍服の重要性についても力説されていました*57。
また,『将校は現場の実務に就いて昇進していくべきである』という人事論も展開されていました*58。
ドイツの先進的な軍事理論を持ち帰ってくると期待していたであろう軍中央は,この復命書の内容に落胆したかも知れません。
少なくとも『よくやった。これからは,我が軍もこのとおりにいこう。』とはなりませんでした。
そんな他者の反応にはお構いなしに,帰国後の希典は,復命書に記載した理想的軍人を体現する人物に豹変しました*59。
まず,留学前は盛んに行っていた料理茶屋通いをぱったりと止め,芸妓が出る宴会には出席しないようになりました。
また,稗を食べるなど質素な生活に徹し,常に軍服を着用するようになりました*60。
希典は,このように豹変した理由を尋ねられても,
感ずるところあり。
と述べるだけで,詳しい理由を明かそうとはしなかったといいます*61。
希典の豹変にドイツ留学(又はその時期の出来事)が関わっていることは間違いないと思われますが,その真相は,もはや明らかにする術もありません。
日清戦争での活躍
左遷,休職,「農人・乃木」
希典は,帰国後,第11旅団に帰任し,明治22年(1889年)には近衛歩兵第2旅団長に就任しました。
そして,翌明治23年(1890年),名古屋の歩兵第5旅団長に任じられました。
近衛の旅団長を務めた後は師団長に就くのが通常です。
従って,名古屋歩兵第5旅団長への異動は,明らかな左遷でした*62。
この左遷人事は,一武人として生きる希典の存在を疎ましく思った桂太郎の意向が働いたと謂われます*63。
明治24年(1891年),その桂太郎が歩兵第5旅団の属する第3師団の師団長に就任しました。
希典は,この人事に反発します。
桂とそりが合わないこともありますが,それだけではありません。
前線指揮官を務めたことのない*64桂を師団長に就任させるという人事は,希典がドイツ留学後に提出した復命書における提言*65と相反するものであったからです。
自身(と自身が提出した復命書)が軍中央部から軽んじられていると感じたためでしょうか。
希典は,明治25年(1892年),病気を理由に休職に入りました。
2度目の休職でした*66。
休職中の希典は,東京に妻子を残し,栃木県・那須野に購入した土地で農業に勤しみました*67。
その後も希典は度々休職することになりますが,その度に那須野で農業に従事しました。
そうした希典の姿は「農人・乃木」といわれました*68。
復職し,日清戦争で活躍する。
明治25年(1892年)12月8日,希典は10か月の休職を経て復職し,第1師団に属する歩兵第1旅団長となりました*69。
この復職は,希典を下野させておくのは陸軍の損失であると考えた陸軍中将・山地元治が,自身が率いる第1師団において希典を復職させたいと山縣有朋に掛け合った結果でした*70。
程なくして日清戦争が始まります。
希典は,明治27年(1894年)10月,大山巌が率いる第2軍に属して中国大陸へと出征しました*71。
希典率いる歩兵第1旅団は,明治27年(1894年)9月24日に東京を出発。
広島を経て宇品を出航し,同年10月24日,遼東半島に上陸。
そして,同年11月以降,破頭山,金州,産国及び和尚島において戦いました。
1度目の旅順要塞攻略
希典(歩兵第1旅団)は,同年11月24日,旅順要塞を攻撃しました。
旅順要塞は,清が西洋人技師を使って築城させたもので,清は「難攻不落」と豪語していました。
旅順要塞を守る清国軍は約1万2000人。
対する日本軍は約1万数千人。
攻める側は守る側よりも多くの兵力を要するというのが攻城戦・要塞攻略の常識です。
ほぼ同数の兵力で,「難攻不落」と言われる要塞を攻撃する日本軍の作戦は無謀とも思われました。
ところが,日本軍は,わずか1日で旅順を陥落させてしまいました*72*73。
この成功体験は強烈で,後の日露戦争における旅順攻囲戦にも影響を与えた可能性があります。
日清戦争の終結と「名将・乃木希典」の栄達
翌明治28年(1895年),希典は,蓋平,太平山,営口及び田庄台において戦いました。
このうち,蓋平において,希典は,日本の第1軍(司令官は,あの桂太郎)に属する第3師団を包囲した清国軍を撃破するという武功を挙げました。
この戦闘によって希典の武名は高まり,
将軍の右に出る者なし
といわれるほどの評価を受けました*74。
この時点において,希典は間違いなく「名将」でした。
希典は,日清戦争が終結する間際の明治28年4月5日,中将に昇進し,仙台市に本営を置く第2師団の師団長に就任しました*75。
また,明治28年8月20日には男爵に叙せられ,華族となりました*76。
台湾総督・四度目の休職
台湾総督就任――統治失敗――
日清戦争の結果締結された「下関条約」によって,日本は台湾を領有することになりました。
しかし,これを不服とする清国の官吏・住民は,湖広総督・張之洞らの助力も得て,明治28年(1895年)5月25日,台湾民主国の独立を宣言しました。
これを受けて,日本は,直ちに台湾征討のため台湾へ派兵しました。
このとき,希典率いる第2師団も増援として台湾へ派遣されました*77。
希典率いる第2師団は,明治28年(1895年)9月12日,台湾に上陸し,同年10月11日以降,台南に向かって進軍し,台南に拠る台湾民主国大将軍・劉永福を敗走させました。
その後,希典は南部台湾司令官に任じられ,5か月ほど台南に駐留しました*78。
明治29年(1896年)4月12日,希典率いる第2師団は台湾を発ち,仙台に凱旋しましたが,凱旋から半年ほど経過した同年10月14日,希典は台湾総督に任じられ,再度,台湾へと旅立ちました*79。
このとき,希典は,台湾赴任にあたり,妻の静子及び母の壽子を伴いました。
希典に課せられた使命は,台湾の治安確立です*80。
妻と母を伴ったところに,希典の不退転の決意が現れていました。
台湾総督・希典は,教育勅語の漢文訳を作成し,台湾島民の教育に取り組みました。
また,台湾現地人を行政機関に採用して,現地の旧慣を保護して施政に組み込むよう努力しました。
さらに,在台日本人に対しては,現地人の陵虐及び商取引の不正を戒め,台湾総督府の官吏についても質素と清廉を求めました*81。
しかし,清廉潔白で質素倹約に励む希典の態度は,民政局長・曾根静夫ら配下の官吏との対立を招き,希典による台湾統治は不成功に終わります*82。
明治30年(1897年)11月7日,希典は台湾総督を辞職しました。
辞職願に記載された辞職理由は,記憶力減退(亡失)による台湾総督の職務実行困難でした*83。
希典による台湾統治は失敗であったと評価されています。
しかし,希典が官吏の綱紀粛正に努め自ら範を示したことは,後任の総督である児玉源太郎とこれを補佐した民政局長・後藤新平による台湾統治にとって大いに役立ち,台湾人の心を打ったという肯定的な評価もあります*84。
第11師団長就任――善通寺師団――
希典は,明治31年(1898年)10月3日,約7か月の休職を経て復職し,香川県善通寺に新設された第11師団長に就任しました*85。
台湾総督まで務めた希典にとって,師団長という職は役不足とも思われました。
川上操六は,希典に対し,いまさら師団長職は軽すぎないかと述べたこともあります。
これに対し,希典は,
『国軍の基礎は師団にあり,実兵を指揮することは重要かつ名誉なことである。』
と応じたといいます*86。
希典は,第11師団を厳しく練兵しました。
ある連隊の軍紀が緩んでいると知れば,真夜中,その連隊の兵営を別の連隊を率いて取り囲んで急襲し,遊興にふけっていた将校を戒めるといった具合です*87。
その一方で,希典は,彼らしい愛情を部下に示しました。
希典は,架橋演習を行う工兵隊を一兵卒と同様炎天下で見守ったり,軍旗祭では部下とともに軍歌を歌って行進したり,部下と苦楽を共にすることを常としたのです*88。
馬蹄銀分捕事件による休職
明治34年(1901年)5月22日,馬蹄銀分捕事件*89が起きました。
この際,希典の部下である杉浦少佐にも嫌疑がかけられました。
結局,杉浦少佐は有罪とはなりませんでした。
しかし,希典は,部下の中から嫌疑者がでたことそれ自体に責任を感じ,休職を申し出て帰京しました。
ただし,表向きの休職理由は,リウマチでした*90。
希典は,その生涯において計4回も休職しましたが,馬蹄銀分捕事件後の休職が最も長く,休職期間は2年9か月に及びました。
希典は,その休職中,栃木県那須野石林にあった別邸で農作業をして過ごしました。
農耕に勤しむ「農人・乃木」として過ごしたのです*91。
それは,来たるべき困難に備えるため必要な時間だったのかも知れません。
なお,明治35年,希典は,新坂町にある自邸の母屋が老朽化したため,これを改築(実質的には新築)しました。その建物は,東京都港区赤坂の「旧乃木邸」として保存されています。
日露戦争へ
復職して第三軍司令官に就任
日本は,日清戦争後,朝鮮半島への進出を強め,同じく朝鮮半島を勢力下におこうとするロシア帝国と対立を深めていきました。
日本とロシアは外交交渉による解決を模索しましたが,明治36年(1903年)8月から始まった交渉は,翌明治37年(1904年)2月6日,日本がロシアに対して国交断絶を通知することで終わりました。
その際,日本は,ロシアに対し,
独立ノ行動ヲ取ルコトノ権利
を宣言。すなわち,軍事行動を執ることを宣言した上で,2月8日,日本海軍聯合艦隊は旅順港内にいたロシア帝国太平洋艦隊を攻撃し,日露戦争が事実上開戦となりました*92。
その開戦を目前にした2月5日,希典に対して動員令が下りました。
現役復帰の命令です。
希典が任じられたのは,留守近衛師団長でした。
希典はこの人事に不満がありました。
前線の師団ではなく,後備任務の師団に回されたからです*93。
しかし,明治37年(1904年)5月2日,希典は,新たに編成された「第三軍」の司令官に任命されました。
希典が待ち望んだ前線での任務です。
希典はこの職を大変喜びました。
希典は,東京出立の際,見送りに来た野津道貫*94に対し,
どうです,若返ったように見えませんか?どうも白髪が,また黒くなってきたように思うのですが」
と述べたといわれます*95。
なお,希典の第三軍司令官用に関して,山縣有朋による推薦ということもあり,各軍司令官のうち長州出身者が薩摩出身者に比較して少数だったので,両者を同数にするという藩閥政治的配慮の下決定されたという主張もあります*96。
しかし,旅順要塞攻撃計画が決定された明治37年(1904年)3月14日当時における陸軍大将のうち,山縣有朋*97,大山巌*98,桂太郎*99,黒木為楨*100,奥保鞏*101,岡沢精*102,長谷川好道*103,西寛二郎*104,児玉源太郎*105,山口素臣*106,小川又次*107は既に重職にあったり動員されていたりしたため異動は困難でした。
また,野津道貫*108は大山(62歳)よりも年上(63歳)の「別格」であって,大山の方が先任であるとはいえ,その下につくのは考えがたく*109,佐久間左馬太は落馬による怪我がもとで休職中であって健康ではありませんでした。
こうなると,先任順からいって希典が第三軍司令官に就任することは自然なことでした*110。
長男・勝典の死
明治37年(1904年)5月27日,長男・勝典が南山の戦いにおいて戦死しました。
勝典の死は新聞でも報道されました*111。
希典は,中国大陸へ渡る途上の広島において勝典の訃報を聞きました。
訃報に接した希典は,東京にいる妻・静子に
勝典,名誉の戦死,満足す,あと文
という電報を送りました*112。
希典は,明治37年(1904年)6月1日,勝典を弔う間もなく,広島の宇品を出航し,中国大陸へ出発しました。*113。
金州城外,斜陽に立つ。
第三軍は,第2軍に属していた第1師団(東京),第9師団(金沢)及び第11師団(善通寺)を基幹として編成されました。
編成目的は旅順要塞の攻略です*114。
希典は,明治37年(1904年)6月6日,遼東半島の塩大澳に上陸しました。
そして,このとき,大将に昇進しました*115。
希典は,同月7日,金州・南山を巡視します。
ここは,長男・勝典が戦死した場所です。
希典は,戦死者の墓標にビールを献じ,後に「乃木三絶」の一つに数えられる以下の漢詩「金州城外の作」を詠みました。
山川草木轉荒涼(山川草木転 た荒涼)
十里風腥新戰場(十里風腥 し 新戦場 )
征馬不前人不語(征馬前 まず 人語らず)
金州城外立斜陽(金州城外 斜陽に立つ)
旅順攻囲戦
旅順攻囲戦における乃木希典の能力・評価については「旅順攻囲戦――乃木希典は愚将か――」を参照して下さい。
攻略難航――第1回総攻撃――
希典率いる第三軍は,明治37年(1904年)6月26日から旅順要塞に向けて進軍を開始しました。
第三軍は,旅順要塞の前進陣地を攻略し,同年8月上旬までには旅順要塞の包囲を完成させました*116。
明治37年(1904年)8月7日,第三軍は第1回目の総攻撃を行い,同年10月26日には第2回目の総攻撃を,同年11月26日に第3回目の総攻撃を行いました*117。
また,「白襷隊」という決死隊による突撃も敢行されました*118。
第1回総攻撃では「強襲法」が採用されました。
強襲法とは,入念な準備射撃*119の後に要塞へ突撃し,これを突破する戦術です。
当時は,戦車も航空機もなく,浸透戦術・縦深戦術も未発達な時代だったので,この「強襲法」が要塞攻略の一般的な戦術だったのです。
野砲による砲撃を中心とした準備射撃によって要塞の守備力は低下しているはずでした。
ところが,旅順要塞は,銃器の射程などを考慮して巧みに配置された複数の堡塁(歩兵の防御・出撃拠点となる構造物)を塹壕で結んだ近代要塞であり,堡塁を砲撃されても塹壕の機能は損なわれず,守備力は低下していませんでした。
また,堡塁もベトン(コンクリート)で固められており,日本軍の準備射撃に対しても十分な守備力を発揮しました。
そうとは分からない日本軍は,要塞の守備力が低下したことを前提に,要塞の全面から攻撃を行いました。
これに対し,ロシア軍は豊富な銃火器(特に機関銃)を駆使して反撃しました。
この反撃によって,第三軍は1万6000人もの死傷者を出しました。
日本軍は複数の堡塁を奪取し,前進を果たしましたが,甚大な被害を生じ,総攻撃を中止しました。
こうして,第1回総攻撃は失敗したのです。
日清戦争においては1日で陥落した「自称・難攻不落」の旅順要塞は,ロシア軍によって,名実共に「難攻不落」の要塞へと変貌していたのです*120。
「正攻法」の採用――第2回・第3回総攻撃――
第1回総攻撃の失敗を踏まえて,希典率いる第三軍は戦術を切り替えました*121。ロシア軍の堡塁の手前まで塹壕*122をジグザグに掘り進めて突撃陣地を構築し,そこから攻撃を行う「正攻法」に切り替えて旅順要塞を攻め続けました*123。
正攻法の採用について,第三軍の参謀らはこれに反対しました。
しかし,最終的には,希典自らが正攻法の採用を決定したのです*124。
正攻法の採用によって,第三軍の損害率はかなり減少しましたが*125,塹壕の掘削には時間を要することもあり,旅順要塞は容易には陥落しませんでした。
明治37年(1904年)10月26日,第2回総攻撃が敢行されました*126。
明治37年(1904年)10月26日,第2回総攻撃が敢行されました。
9月に到着した28センチ砲*127の活躍もあり*128,前線は着実に押し上げられ,彼我の損害(死傷者数)は逆転しました*129。
しかし,堡塁1つを攻略したに留まり,要塞全体の攻略にはほど遠い戦果しか得られませんでした。
同年11月26日には第3回総攻撃が行われましたが,それでも旅順要塞を陥落させることはできませんでした。
続いて行われた決死隊「白襷隊」による夜襲は,第一次世界大戦中盤に考案された浸透戦術を先取りするようなものでしたが,結果としては失敗しました*130。
希典に対する非難
旅順要塞の早期陥落を楽観していた日本軍の内部においては,希典を非難する声があがり,「乃木更迭論」も浮上しました。
しかし,明治天皇が,御前会議において
乃木を替えてはならぬ
と述べたことから,希典が更迭されることはなかったと謂われます*131。
あるいは,乃木更迭論を耳にされた明治天皇が,参内した山縣有朋に対し,
乃木をやめさせてはならぬ。だれが乃木のあとを継ぐのか。そういう者がおると言うのか。
と述べられたとも謂われています*132。
しかし,実際は,希典だけを更迭するという提案はされておらず,旅順要塞攻略後に第三軍司令部をまるごと復員させて解体してしまうという実質的な更迭案があったようです。
しかし,この更迭案も,旅順陥落後の明治38年(1905年)1月2日,児玉源太郎が了承する寸前に,満州軍作戦主任参謀・松川敏胤が,第三軍司令部復員の話は旅順陥落前に議論されていた問題であって,今,これを実行することは後に禍根を残します。
と助言した結果,旅順要塞攻略という功績を挙げた第三軍司令部を更迭して恥をかかせることは不要である
として見送られました*133。
希典に対する批判は国民の間にも広まりました。
乃木邸に向かって投石したり,罵声を浴びせたりする者も現れました。
また,希典の辞職や切腹を勧告する手紙は,2400通も届けられました*134。
203高地攻撃と児玉源太郎の訪問
希典率いる第三軍は,第3回総攻撃の翌日である明治37年(1904年)10月27日,攻略目標を203高地に変更しました。
その直後である12月1日,児玉源太郎が第三軍司令部を訪れました。
児玉は,第三軍の指揮権を児玉が預かるという満州軍装司令部の命令書を懐中に携えていました。
しかし,結局,この命令書は使用されず,希典が引き続き指揮を執りました*135。
児玉は,第三軍の参謀たちをひとしきり叱り飛ばした後,主として以下の2点3点を指示しました*136。
- 重砲隊を高崎山に配置転換(203高地を支援するロシア軍の拠点となっていた椅子山を制圧するため)。
- 203高地占領後,15分ごとに28センチ砲で砲撃し,敵の逆襲に備える。
- 20人~30人で構成する増援隊を203高地陥落まで繰り返し投入する「肉弾戦」の採用。
ただし,上記3点は児玉が第三軍の参謀たちに203高地の攻略法を質問し,参謀たちがこれに回答するという形で決定されたものであって,児玉が明確に指示したものではありませんでした。
なお,203高地占領後に28センチ砲で断続的な砲撃を加えることについて,攻城砲司令部部員の奈良武次が「友軍に危険なり」と不同意を唱えたのに対し,児玉が「砲撃は味方打ちを恐れず」と答えた,という児玉の果断を賞賛する逸話は,『坂の上の雲』にも登場し*137,人口に膾炙しています
しかし,奈良本人の回想によれば,同士討ちを恐れずに砲撃を加えるべきと主張したのは奈良であり,これを聞いた児玉は第7師団長・大迫尚敏の意向を尋ね,大迫が「やむを得ない」と答えて砲撃が決定した,とされています*138。
また,『坂の上の雲』は,児玉が希典から第三軍の指揮権を「借用」し,直接指導したことによって203高地を陥落させたという架空の物語になっています*139。
ともかく,児玉が,多大な損害を前にうちひしがれていた希典と長時間話し合いを行い激励したことは,希典にとって大きな助けになりました。
次男・保典の死
203高地での戦いが激化する明治37年(1904年)12月1日,第1師団後備歩兵第1旅団の副官として旅順攻囲戦に参加していた希典の次男・保典は,伝令の途中で敵弾に当たって戦死しました*140。
保典の戦死を聞いた希典は,「よく戦死してくれた。これで世間に申し訳が立つ。」と述べたといいます*141。
希典は,日露戦争において長男及び次男を相次いで亡くしました。
希典に対する同情は日本国民の間に広がり,後に,
一人息子と泣いてはすまぬ,2人なくした人もある。
という俗謡が流行しました*142。
203高地占領
明治37年(1904年)12月5日,日本軍はついに203高地を占領しました。
日本軍が奪取してはロシア軍が取り返すということを幾度か繰り返した後の占領でした。
203高地の攻防においてロシア軍は予備兵力を使い果たしました。
しかし,それからも戦闘は続きました。
第三軍の目的は旅順要塞の攻略です。203高地を占領しただけではその目的を達成したとは言えないのです。
なお,203高地占領後,ここに観測所が設けられ,旅順港内に停泊するロシアの艦隊に砲撃が行われました*143。
このとき日本軍は知るよしもありませんでしたが,停泊中の艦船はいずれも先の黄海海戦において上部構造が破壊されて機能を喪失しており,事実上「撃沈」されていました*144。
そこに日本軍からの砲撃が始まりました。
ロシア軍の艦船は,日本軍による鹵獲を防ぐため,キングストン弁を自ら開いて自沈し,さらには爆破されました*145。
旅順陥落
203高地占領後も,ロシア軍は頑強に抵抗を続けましたが,203高地での兵力損耗が激しく,要塞を防御するには兵員が減少しすぎていました。
明治38年(1905年)1月1日午後3時,日本軍は旅順の旧市街・新市街・港湾を望む望台を占領しました。
望台占領によって旅順要塞はようやくその機能を喪失しました。
望台占領を受けて,旅順要塞司令官ステッセルは,第三軍に対して降伏書を送付し,1月1日午後4時,第三軍総司令部がこれを受領・受諾しました。
そして,翌2日,戦闘が停止され,旅順要塞は陥落したのです*146。
203高地攻略から約1か月を経過していました。
希典の人格は,旅順を攻略する原動力となりました。
希典の下で戦った桜井忠温は,
乃木のために死のうと思わない兵はいなかったが,それは乃木の風格によるものである。
と述べたとされています*147。
水師営の会見
明治38年(1905年)1月5日,旅順要塞を陥落させた希典は,要塞司令官であったステッセルと会見しました。
この会見は,水師営にあった民家で行われたため,水師営の会見といわれます。
この会見に先立って,明治天皇は,山縣有朋を通じて,希典に対し,祖国ロシアのため尽力したステッセルの武人としての名誉を確保するよう要請しました*148。
希典は,明治天皇の要請どおり,ステッセルに対して紳士的に接しました。
例えば,降伏する際に帯剣することは許されないのが通常ですが,希典は,ステッセルに帯剣を許しました*149。
また,従軍記者たちが再三にわたって写真撮影を要求しましたが,希典はステッセルの名誉を守るため,わずか1枚を除いて写真撮影を許しませんでした*150。
旅順要塞を陥落させた武功と併せて,水師営の会見における希典の紳士的な態度は世界的に報道され,賞賛されることとなります*151。
また,この会見を題材とした唱歌『水師営の会見』は,日本の国定教科書に掲載された*152。
希典は,明治38年(1905年)1月13日,旅順要塞に入城しました。
そして,同月14日,旅順攻囲戦において戦死した将兵の招魂祭を挙行し,自ら起草した祭文を泣きながら奉読しました。
そうした希典の姿は,日本語の分からない観戦武官及び従軍記者らをも感動させ,従軍記者らは,こぞって祭文の意訳を求めたといいます*153。
また,希典は,旅順で戦死した部下たちを思い,漢詩を詠みました。
なお,
旅順陥落後,標高が203メートルであることから「203高地」とだけ呼ばれていた丘に,激戦地に相応しい名称を付そうという話になった際,希典が名付けました。
爾靈山嶮豈攀難(爾霊山 嶮 なれども豈 に攀 ぢ難 からんや)
男子功名期克艱(男子の功名克艱 を期す)
鐵血覆山山形改(鉄血 山を覆いて 山形 改まる)
萬人齊仰爾靈山(万人齊 しく仰ぐ 爾霊山)
奉天会戦での活躍と凱旋*154
第三軍の任務
旅順における日本軍の勝利によって,国際世論は日本の勝利を確信するとともに,講和による戦争終結へと傾いていきました。
日露の仲介役を買って出ていたアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領にドイツ皇帝ヴィルヘルム二世も同調します*155。
しかしロシアは講和に乗り気でなく,日本もロシア軍殲滅のための決戦を求めていました。
希典は,旅順要塞攻略後,第三軍を率いて奉天会戦に参戦しました。
第三軍に与えられた役割は,西からロシア軍の左翼を攻め,その注意を引くことです。
日本軍右翼の鴨緑江軍と左翼の第三軍とが動いてロシア軍の注意を引き,その間に中央の第2軍・第4軍がロシア軍の中央を突破するという作戦です*156。
なお,希典は,第三軍を日本軍の中核とすべく,戦力増強を満州軍総司令部に要請しました。
しかし,満州軍総司令部の主任参謀・松川敏胤は,第三軍参謀・津野田是重に対し,
『第三軍には多くを期待していない。ただ敵を引きつけ,新民屯(奉天の西北)に籠もっていればいい。戦力の増強は不要。』
という趣旨の返答をしました*157。
旅順攻略によって一躍名を馳せた第三軍ですが,満州軍総司令部は,旅順攻囲戦における第三軍の働きを低く評価し,奉天会戦では「脇役」としたのです。
なお,長南政義氏は,奉天会戦における日本軍の作戦構想は「中央突破」ではなかったとしています*158。
長南氏によれば,満州軍総司令部は,側面・背面からロシア軍を攻撃するつもりでした。
第1軍がロシア軍左翼を攻め,第4軍がロシア軍正面からの攻撃を防御し,第三軍がロシア軍の右翼を「繞回」してロシア軍の退路を断つ動きを見せて退却を誘う。この第三軍の動きを受け,第2軍が主攻となってロシア軍の右翼を突破するというものです。
ここにいう「繞回」とは,迂回とは異なります。
繞回は,包囲を実施するために敵の側面・背面に向かって進軍することをいいます。
包囲とは,側面と正面から敵を圧倒する戦術です。
他方,迂回とは,敵陣地を直接攻撃せず,側面・背面に回り込んで陣地から敵軍を引きずり出し,陣地外での戦闘を強要する戦術をいいます*159。
第三軍が担った「繞回」とは,包囲殲滅戦を実現するための戦術だったのです。
正面突破か,包囲殲滅か,いずれの戦術であっても,第三軍の任務は主たる攻撃(主攻)を補助するための攻撃(助攻)でした。
そのため,第三軍は十分な戦力の増強もされないまま奉天会戦に突入します。
繞回――包囲殲滅――
明治38年(1905年)2月21日,日本軍右翼の鴨緑江軍が奉天会戦の口火を切り,続いて2月24日には鴨緑江軍と共に日本軍右翼を構成する第1軍が攻撃を開始しました*160。
これを受けてロシア軍は日本軍右翼に一定の戦力を振り向けましたが,その規模は大きくなく,日本軍が想定していたほどの陽動とはなりませんでした*161。
それでも,第三軍の行動開始を隠蔽することには成功しました*162。
2月27日,希典率いる第三軍は進軍を開始します。
第三軍の任務は,まず,大民屯(奉天の西方)に向かって進軍することでした*163。
満州軍総司令官・大山は,第三軍によって奉天会戦の死命を決するという程に第三軍の動きを重視していました。
しかし,総司令部から実際に発令された命令は,上述したとおり「繞回」であり,第三軍の任務は主攻なのか助攻なのか不明確でした。
参謀・津野田は「第三軍には多くを期待していない」と述べたとされますが,他の参謀・白井二郎や尾野実信は,「敵の右翼を包囲する第三軍に大なる期待」をもっていたと述べています*164。
従って,大山は,第三軍に助攻以上の役割を期待していたと思われます。
ところが,第三軍に与えられた任務は,単なる「繞回」であり,それによって奉天西方のロシア軍を退却させるというなものでした*165。
これは,第三軍によってロシア軍を牽制し,第2軍によって雌雄を決する,と解釈できます*166。つまり,上述した大山の意図と齟齬した任務であって,総司令部の「真意」が不明確になってしまいました。
このため,第三軍は,課せられた任務の目的を独自に解釈して進むしかありませんでした。
第三軍の猛進,総司令部に抑止さる
希典は,第三軍の目的は「大々的な繞回」であると解釈し,全滅してでも「繞回」を達成しようと,決死の覚悟で進軍を開始しました。進軍する先は,大民屯よりも東,奉天の北に位置する馬三家子でした*167。
当初,第三軍は順調に進撃します。
しかし,3月1日以降,進撃速度は鈍化しました。
満州軍総司令部は,第三軍に対し,第2軍による攻撃を援助するため,奉天西方の四方台を攻撃するよう命令したからです。
このとき,ロシア軍総司令官アレクセイ・クロパトキンは,第三軍の動きを察知し,第三軍が進軍する方面に対して第三軍の約2倍にあたる兵力を振り向けて対抗させました*168。
なお,同3月1日,満州軍総司令部は,第三軍の動きが遅いとみて「乃木軍ハ猛進セヨ」と命じたという話があります。
しかし,実際には,3月1日に繞回を中断したのは上述のとおり満州軍総司令部の命令に基づくものでり,この話は全くの創作です*169。
3月2日,第三軍は,満州軍総司令部から,第2軍を援護するようにとの命令を受けました。
しかし,第三軍は,同日夜,ロシア軍の退路を断つべく,独断専行によって奉天の西方からロシア軍の背後に迫りました*170。
このとき,第三軍司令部が前線に近づきすぎ,いったん後方に退くということがありました。
このことは,第三軍が総司令部の命令を受けるまでもなく,ロシア軍の退路を断つべく猛進しており,『第三軍の司令部は前線から離れたところに設置されがち』という批判に何ら根拠がないことを示しています*171。
3月3日,第三軍は進路に立ちはだかるロシア軍に攻撃を仕掛けようとしますが,総司令部から攻撃の一時中止を命じられます。
これによってロシア軍は体勢を立て直す時間を得ることになりました*172。
乃木の独断専行――露軍の退路遮断――
翌4日,希典は,戦局を左右する大きな決断をします。
ロシア軍は既に退却を始めているとの認識に基づき,馬三家子(奉天の北西)からロシア軍の退路を遮断する方向に進撃すべしとする総司令部の命令が現状にそぐわないと判断した第三軍は,独断専行によって東進し,東奉天停車場を目指したのです*173。
満州軍総司令部においては第三軍の決断に対する対処に関する議論が紛糾しましたが,結局,第三軍の独断専行を黙認して放置することとしました*174。
そして,3月5日,満州軍総司令部は,第三軍に対し,一部戦闘地域(楊士屯~後民屯)を第二軍に譲るよう命じ,第三軍にロシア軍の退路遮断を期待しました。
これを受けて,第三軍は,北方に転進しました。
結果論ですが,第三軍は当初の企図どおり退路遮断のために進撃を続けるべきでした。3月4日の独断専行は裏目に出てしまったことになります*175。
第三軍は,3月4日から7日にかけて,2~3倍するロシア軍を相手に奮戦しました。
3月7日*176・8日は,総司令部から攻撃を督促されました。
8日においては攻撃催促を各師団に伝えるため,希典自身が危険な前線に身をさらして各師団長との面談しようとするなど,勇猛果敢な姿勢を見せ,奉天会戦を戦い抜いたのです*177。
そして,ロシア軍は日本軍に対して効果的な損害を与えることができず,3月6日には撤退を決定。撤退を成功させるために,包囲を目論む第三軍を叩くこととしました*178。
こうして,希典率いる第三軍が奉天会戦においてにわかに重要性を増したのです。
3月7日,満州軍総司令部は,当初の予定どおり作戦が進捗しないことから右翼の第1軍にも進軍を命じてロシア軍の包囲を図りました。
この包囲における要は既に包囲に動いていた第三軍です。
3月8日,第三軍の奮戦ぶりを見たロシア軍総司令官クロパトキンは,その兵力を実際の2倍以上と誤信し,第三軍によって退路を断たれることを懸念して,優勢であった東部及び中央部のロシア軍を退却させました。
翌3月9日,第三軍に編入された後備歩兵第1旅団がロシア軍の攻撃によって潰走し,第1師団歩兵第2旅団も敗走を始めました。
この敗走は,津野田是重による機関銃薙射命令と第1師団長・飯田俊助の統率力による退却停止によって押しとどめられ,第1師団はなんとか持ち直しました*179。
ともかく,ロシア軍の退却によって形勢は一転して日本軍へと傾き,3月10日,日本軍は奉天を占領しました*180*181。
凱旋――自責の英雄――
奉天会戦によって消耗した日本軍は,それ以上北上してロシア軍を追撃する余力がありませんでした。
希典は,奉天の北方にある法庫門に駐留していた時に,日露戦争の休戦を迎えます。
休戦の知らせを聞いた希典は,日露戦争の講和交渉について,
戦争の長期化は日本に不利であるから講和すべきだが,賠償金はとれず,樺太全域の割譲も困難であろう。
と述べ,講和の内容をほぼ正確に予見しました*182。
希典は,明治38年(1905年)12月29日,法庫門を出発し,明治39年(1906年)1月14日,東京の新橋駅に凱旋しました*183。
希典は,日露戦争前から国民に知られた存在でしたが*184,日露戦争を通じて国民的な英雄となっていました。
第一の要因は,ロシア軍が
いかなる大敵が来ても3年は持ちこたえる。
と豪語した旅順要塞*185を陥落さた武功を讃える声でした。
第二の要因は,二人の子息を亡くしたことに対する国民の同情でした。
希典は他の将兵よりも盛大な歓迎を受け,新聞も,帰国する希典の一挙手一投足を詳細に報道しました*186。
国民は希典を盛大に歓迎しましたが,一方の希典は,数多くの将兵を戦死・負傷させた責任を感じ,
守備隊の司令官になって中国大陸に残りたい。
箕でも笠でもかぶって帰りたい。
と嘆いていました。
凱旋後に開催された各種歓迎会の招待を全て断ったのは*187,そうした希典の心情をよく表しています。
凱旋後,希典は,自筆の復命書を明治天皇の御前で涙ながらに奉読しました。
この復命書は,旅順攻囲戦が想定よりも長期間にわたり,多大な犠牲を生じたことを率直に認める内容でした。
復命書奉読後,希典は,明治天皇に対し,明治天皇の将兵を多数戦死させた贖罪のために自害したいと奏上しました。
しかし,明治天皇は,
「どうしても死ぬというのであれば,朕が世を去った後にせよ。」
と述べられて,希典を諫めたといわれます*188。
なお,希典は,凱旋にあたって以下の漢詩を詠んでいます。
「凱旋」という名誉ある場面にもかかわらず,多くの兵を失った哀しみに満ちた詩です。
皇師百萬征強虜(皇師百万 強虜を征す)
野戰攻城屍作山(野戦攻城 屍山を作 す)
愧我何顔看父老(愧 ず我何の顔 あって父老に看 えん)
凱歌今日幾人還(凱歌 今日 幾人か還る)
世界の"NOGI"
旅順攻囲戦は,日露戦争における最激戦でした。
よって,これに勝利した希典は,日露戦争を代表する将軍と評価されました*189。
また,武功だけでなく,水師営の会見におけるステッセルの処遇に代表される,降伏したロシア兵に対する寛大な取扱いについても,世界的な賞賛を受けました*190。
希典を讃える書簡は世界各国から寄せられました。
敵国ロシアの『ニーヴァ』誌ですら,希典を英雄的に描いた挿絵を掲載したほど国際的名声は高まりました。
さらに,「希典」や,希典が占領した「旅順」(アルツール)を子供の名前とする例が世界的に頻発しました*191。
世界各国の王室及び政府も希典を讃え,ドイツ帝国,フランス,チリ,ルーマニア及びイギリスの各国王室または政府は,希典に対して様々な勲章を授与しました*192。
日露戦争において,希典は武人としての面目を果たし,その後の栄達も約束されたかに思われました。
学習院院長
明治天皇による勅命
日露戦争終結からわずか8か月後の明治39年(1906年)7月23日,参謀総長であった児玉源太郎が急逝しました。
そこで,山縣有朋は,希典を後任の参謀総長にと明治天皇に内奏しました。
しかし,明治天皇はこれを許しませんでした。
明治40年(1907年)1月31日,希典は,陸軍大将のまま,学習院院長に任命されました。
明治天皇は,学習院に入学する自身の孫たち(後の昭和天皇ら)の養育を希典に託すため,学習院院長に指名したのです*193。
明治天皇は,希典の学習院院長就任に際して,以下の和歌をお詠みになりました*194。
いさをある 人を教への 親として おほし立てなむ 大和なでしこ*195
「乃木式」指導
希典は,当時の学習院の雰囲気を刷新すべく,学習院を全寮制として,生徒の生活について細部にわる指導を行いました。
希典は,剣道の教育を最重要視し*196,時には日頃の成果を見せよと言い,生徒に日本刀で生きた豚を斬らせることもありました*197。
こうした、希典の厳格で謹厳な教育方針は,「乃木式」と呼ばれました*198。
「乃木院長」の評判
乃木は,月に1,2回しか東京市赤坂区新坂町(後の東京都港区赤坂8丁目)の自宅に帰宅しませんでした。
学習院中等科及び高等科の全生徒と共に寄宿舎に寝泊まりしたからです。
希典は生徒に親しく声をかけたり,駄洒落を飛ばして生徒を笑わせたりしたので*199,学習院の生徒は希典を「うちのおやじ」と言って慕っていました*200。
その一方で,「乃木式」の教育方針に反感を抱く生徒もいました。
彼らは同人雑誌『白樺』に結集して,希典を『非文明的』と嘲笑しました。
これに対し,希典は,親交のあった森鴎外に助言を求めるなどしています*201。
裕仁親王(昭和天皇)の養育
希典は,明治41年(1908年)4月,迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)が学習院に入学される,勤勉と質素を旨としてその教育に努力しました。
裕仁親王は,希典を「院長閣下」とお呼びになりました。
長じて昭和天皇となられた裕仁親王は,後年,希典について,
『自身の人格形成に最も影響があった人物』
と評されました*202。
殉死
裕仁親王らとの別れ
希典は,大正元年(1912年)9月10日,迪宮裕仁親王ら明治天皇の孫たちに対して,山鹿素行『中朝事実』*203及び三宅観瀾『中興鑑言』*204を手渡し,熟読するよう言い聞かせました。
裕仁親王は,当時10歳でした。
裕仁親王は,希典の様子に尋常ならざるものを感じ,「閣下はどこかへ行かれるのですか」とお尋ねになられましたが,希典は答えをはぐらかしました*205。
自刃
希典は,大正元年(1912年)9月13日,明治天皇大葬が行われた日の午後8時ころ,妻・静とともに自害し,明治天皇に殉死しました*206。
乃木夫妻の検視を行った警視庁警察医員・岩田凡平は,遺体の状況等について詳細な報告書を残しています。
岩田は,同報告書中の「検案ノ要領」の項目において,希典と静子が自刃した状況につき,以下のように推測して書き残しました*207。
- 希典は,大正元年9月13日午後7時40分ころ,居室において明治天皇の御真影の下に正座し,日本軍刀によって,先ず,十文字に割腹した。妻・静が自害する様子を見届けた後,軍刀の柄を膝下に立て,剣先を前頸部にあてて,気道,食道,総頸動静脈,迷走神経及び第三頸椎左横突起を刺したままうつ伏せになり,絶命した。
- 希典はあらかじめ殉死を覚悟し,殉死前日である12日夜,「遺言条々」を,殉死当日である13日に他の遺書や辞世等を作成し,自刃を断行した。
- 静子は,希典の割腹と同時に,護身用の懐剣によって心臓を突き刺してそのままうつ伏せとなり,希典にやや遅れて絶命した。
- 希典は,数通の遺書を残したが,そのうち「遺言条々」と題する遺書には,この度の自刃は西南戦争時に連隊旗を奪われた罪を償うものであることなどが記載されていた。
希典は,以下の辞世を残しました*208。
神あがり あがりましぬる 大君の みあとはるかに をろがみまつる
うつ志世を 神去りましゝ 大君乃 みあと志たひて 我はゆくなり
また,妻の静子は,次のような辞世を詠みました。
出でまして かへります日の なしときく けふの御幸に 逢ふぞかなしき
なお,希典の遺書には,『遺書に記載されていない事柄については妻・静に尋ねよ』との記載があります(遺書の全文については,「『遺言条々』ーー乃木希典の遺言についてーー」を参照。)。
このことから,妻・静は殉死する予定ではなかったと推察されます*209。
殉死に対する社会の反応
乃木夫妻の訃報は多数の日本国民を悲しませ,号外を手に道端で落涙する者もいました。
希典を慕っていた迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)は,訃報を聞くと,涙を浮かべ,
「ああ,残念なことである。」
とおっしゃって大きくため息をつかれたといいます*210。
希典の訃報は,欧米諸国の新聞でも報道されました。
例えば,ニューヨーク・タイムズは,日露戦争の従軍記者であったリチャード・バリーの手による希典の伝記と希典が詠んだ漢詩を2面にわたって掲載しました*211。
乃木夫妻の葬儀は,大正元年(1912年)9月18日に行われました。
葬儀には十数万の民衆が自発的に参列したことから「権威の命令なくして行われたる国民葬」ともいわれ,外国人が多数参列したことから「世界葬」ともいわれました*212。
相次ぐ乃木神社の建立
希典の殉死を受け,読売新聞のコラム『銀座より』は,乃木神社の建立,乃木邸の保存,乃木邸がある東京市赤坂区新坂の名称を乃木坂へ改称すること等を提言しました。
その後,京都府,山口県,栃木県,東京都,北海道など,日本の各地に乃木夫妻を祀った乃木神社が建立されました*213。
ここで注目すべきは,国や軍が主導して乃木神社を建立して「軍神」として利用したわけではないということです。
希典は,その死後,軍神としてだけでなく,人間としても慕われ続けていました。
ところが,太平洋戦争の敗戦と大日本帝国の瓦解による価値観の逆転によって希典を省みる人は少なくなり,司馬遼太郎による酷評によってその名声は地に落ち,現在,に至っています。
(完)
参考文献
- 大濱徹也『乃木希典』(講談社<講談社学術文庫>,2010年)
- 岡田幹彦『乃木希典――高貴なる明治』(展転社,2001年)
- 桑原嶽『名将 乃木希典――司馬遼太郎の誤りを正す(第5版)』(中央乃木会,2005年)
- 桑原嶽『乃木希典と日露戦争の真実 司馬遼太郎の誤りを正す』(PHP研究所<PHP新書>,2016年)
- 小堀桂一郎『乃木将軍の御生涯とその精神――東京乃木神社御祭神九十年祭記念講演録』(国書刊行会,2003年)
- 佐々木英昭『乃木希典――予は諸君の子弟を殺したり――』(ミネルヴァ書房,2005年)
- 司馬遼太郎『坂の上の雲(4)(新装版)』(文藝春秋<文春文庫>,1999年a)
- 司馬遼太郎『坂の上の雲(5)(新装版)』(文藝春秋<文春文庫>,1999年b)
- 司馬遼太郎『殉死(新装版)』(文藝春秋<文春文庫>,2009年)
- 戸川幸夫『人間 乃木希典』(学陽書房,2000年)
- 徳見光三『長府藩報国隊史』(長門地方資料研究所,1966年)
- 中西輝政『乃木希典――日本人への警醒』(国書刊行会,2010年)
- 乃木神社・中央乃木會監修『いのち燃ゆ――乃木大将の生涯』(近代出版社,2009年)
- 半藤一利ほか『歴代陸軍大将全覧 明治篇』(中央公論新社<中公新書ラクレ>,2009年)
- 福田和也『乃木希典』(文藝春秋<文春文庫>,2007年)
- 長南政義『新資料による日露戦争陸戦史~覆される通説~』(並木書房,2015年)
- 別宮暖朗『旅順攻防戦の真実――乃木司令部は無能ではなかった』(PHP研究所<PHP文庫>,2006年)
- 別宮暖朗『日露戦争陸戦の研究』(筑摩書房<ちくま文庫>,2011年)
- 松下芳男『乃木希典(人物叢書 新装版)』(吉川弘文館,1985年)
- 柳生悦子『史話 まぼろしの陸軍兵学寮』(六興出版,1983年)
- 学習研究社編集『日露戦争――陸海軍,進撃と苦闘の五百日(歴史群像シリーズ24)』(学習研究社,1991年)
*1:戸川[2000]8頁参照
*2:「壽子」ではなく「壽」であるとする文献もあります。佐々木[2005]40頁
*3:佐々木40頁[2005]
*4:佐々木[2005]41頁
*5:佐々木[2005]45~46頁参照。なお,現代の価値観から言えば,希次の行動は児童虐待でしょう。しかし,この逸話を現代の価値観に基づいて否定することも,現代の価値観を無視して現代に応用することも,いずれも無意味であり有害であると考えます。
*6:この逸話は昭和初期における「修身」の国定教科書にも掲載されるなどしており,かつては知らぬ者のない有名な話でした。佐々木[2005]45~46頁参照。
*7:佐々木[2005]44頁
*8:佐々木[2005]44頁
*9:希次が激しく反対した理由には,乃木家の由来が大きくかかわっていると思われます。希次が武芸を磨き,それが藩主の目にとまったため,本来は医者の家である乃木家の希次が武士に取り立てられたという経緯です。こうした経緯から,希次は,生粋の武家以上に「武士」に対するこだわりがあったと思われます。そうした「武士」へのこだわりが,学者を目指そうとする源三への猛反対に繋がったのではないでしょうか。なお,生粋の武士以上に武士らしくありたいという姿は,新選組にも見られます。
*10:希典は,帝国陸軍に属した後,休職を繰り返し,その都度,那須野の別邸に起居して農作業にいそしみました。その姿は「農人・乃木」と言われましたが,その原点は玉木家での農作業にあるのかも知れません。
*11:大濱[2010]25頁以下,福田[2007]50頁以下参照。
*12:大濱[2010]40頁,佐々木[2005]122頁以下参照。
*13:佐々木[2005]123頁
*14:徳見[1966]67頁以下
*15:中西[2010]13頁
*16:大濱[2010]33頁,半藤ら[2009]176頁
*17:岡田[2001]26頁
*18:岡田[2001],26~27頁
*19:大濱[2010]34頁
*20:柳生[1983]208頁
*21:福田[2007]63頁以下
*22:柳生209頁
*23:柳生[1983]212頁
*24:柳生[1983]212頁
*25:大濱[2010]35頁以下,佐々木[2005]430頁
*26:大濱[2010]36頁以下
*27:岡田[2001]27頁,大濱[2010]39頁,福田[2007]66頁
*28:岡田[2001]28頁
*29:佐々木[2005]431頁
*30:「心得」とは,下級者が上級職を務める際に用いられた役職名。大濱[2010]38頁
*31:大濱[2010]38頁以下,佐々木[2005]431頁
*33:大濱[2010]39頁以下
*34:大濱[2010]48頁以下,佐々木[2005]125頁以下
*36:大濱[2010]54頁,佐々木[2005]125頁以下
*37:福田[2007]74頁以下
*38:福田[2007]76頁,中西[2010]16頁
*39:この書簡は,福原の上官である山縣有朋が書かせたものといわれます。福田[2008]19頁
*40:大濱[2010]71頁以下参照。福田[2007]77頁以下は,福原の書簡の内容が一方的であるとして希典を擁護しています。
*41:岡田[2001]31頁以下
*42:大濱[2010]80頁以下,福田[2007]79頁以下,佐々木[2005]122頁以下
*43:岡田[2001]34頁
*44:大濱[2010]84頁
*45:岡田[2001]38頁以下,佐々木[2005]119頁以下
*46:佐々木[2005]119頁以下,27頁以下
*47:中西[2010]18頁以下
*48:大濱[2010]89頁以下参照。
*49:希典の出身である長府藩と,その主家である長州藩のライバルであって,当時,薩摩と長州の結婚には相当な拒絶反応がありました。
*50:このときの家は、現在、東京都港区赤坂の「旧乃木邸」として保存されています。乃木神社に隣接しています。
*51:佐々木[2005]431頁
*52:佐々木[2005]89頁以下,122頁以下参照。
*53:佐々木2005,431頁
*54:佐々木[2005]431頁
*55:大濱[2010]104頁以下参照。
*56:大濱[2010]107頁参照。
*57:大濱[2010]108頁以下,福田[2007]102頁以下参照。
*58:岡田[2001]61頁参照
*59:大濱[2010]111頁以下参照。
*60:特に軍服の着用について,佐々木[2005]201頁以下参照。
*61:岡田[2001]65頁参照。
*62:岡田2001,65頁参照
*63:岡田2001,66~67頁参照
*64:ただし,戊辰戦争では大隊を率いて庄内藩と戦っています。
*65:岡田[2001]61頁参照
*66:岡田[2001]67頁参照
*67:岡田[2001]67~68頁参照
*68:大濱[2010]111頁
*69:大濱[2010]116~117頁以下
*70:岡田[2001]69~71頁参照
*71:大濱[2010]116頁
*72:大濱[2010]117頁参照
*73:岡田[2001]74頁
*74:中西[2010]25頁以下,岡田[2001]75頁参照
*75:大濱[2010]117
*76:岡田[2001]294頁参照
*77:佐々木[2005]433頁参照
*78:松下[1960]97~98頁参照
*79:大濱[2010]118頁参照
*80:大濱[2010]119頁参照
*81:大濱[2010]121頁,松下[1960]112頁参照
*82:大濱[2010]123~124頁参照
*83:大濱[2010]126頁参照
*84:大濱[2010]126頁,松下[1960],115頁参照
*85:松下[1960]119~120頁参照
*86:岡田[2010]81頁参照
*87:岡田[2010]82頁参照
*88:岡田[2010]83~84頁参照
*89:義和団事件に際して日本軍が天津城を占領した際,第11師団歩兵第12連隊第3大隊の兵士が,分捕した馬蹄銀を横領した事件。大濱[2010]127頁参照。
*90:大濱[2010]127頁,松下[1960]126頁参照
*91:大濱[2010]128頁,佐々木[2005]96頁以下参照
*92:横手[2005]114頁~115頁。なお,国交断絶と宣戦布告とを別異に考えていたロシアは日本の「不意打ち」を非難しましたが,当時の国際法上,宣戦布告以前における攻撃は違法でなく,しかも,ロシアは交渉を引き延ばして極東の軍備を増強していたので,その主張は,一見筋は通っているものの,あまり説得力のないものでした。同書115頁参照。
*93:大濱[2010]142~143頁参照
*94:陸軍大将,軍事参議官。後の第4軍司令官
*95:大濱[2010]144頁,佐々木[2005]53頁以下参照
*96:学習研究社[1991]166頁(上田滋執筆部分)参照
*97:枢密院顧問,「元勲」
*99:総理大臣
*100:第1軍司令官
*101:第2軍司令官
*104:第2師団長。動員発令済につき転出困難。
*106:大将任官は3月17日。既に胃がんに冒されており,8月に死去。
*107:第4師団長。動員発令済につき転出困難。
*108:軍事参議官。
*109:とはいえ,6月には,新たに編成された第四軍の司令官に就任し,大山の下で軍を指揮することになります。
*110:長南[2015]516頁以下
*111:佐々木[2005]54頁以下参照
*112:岡田[2001]99頁
*113:佐々木[2005]434頁参照
*114:岡田[2001]98頁,学習研究社[1991]49頁参照
*115:佐々木[2005]434頁参照
*116:松下[1960]142~143頁参照
*117:明治37年(1904年)9月19日の攻撃を第2回総攻撃とする説もあります。佐々木[2005]434頁参照
*118:大濱[2010]146頁以下参照
*119:要塞の施設と守備兵に損害を与えることを目的に行われる攻撃
*120:ロシア軍によって構築された旅順要塞は,しばしば「永久要塞」といわれます。しかし,旅順要塞を含め,近代要塞の防御の要は塹壕であり,堡塁やトーチカがコンクリート製であるか否かは決定的ではありません。旅順要塞は,『野戦築城』の対義語である『永久築城』による要塞という意味では「永久要塞」ですが,現実にはそれ以上の意味は無く,ロシア軍の願望を表したものに過ぎないと評されます。別宮[2006]74頁参照
*121:明治37年(1904年)9月19日の攻撃から転換。
*122:対壕,突撃壕といいます。
*123:近代要塞に対して塹壕戦を挑むということ自体,人類史上初めてのことでした。従って,要塞攻略のための戦法といえば「強襲法」であり,これこそがその時点における「正攻法」であったのではないでしょうか。「正攻法」とは後付けの名前に過ぎないように思います「正攻法」は,当時から強襲法に対置される言葉として用いられていましたので,削除しました。。
*124:岡田[2001]111頁以下,114頁参照
*125:岡田[2001]111頁以下,114頁参照
*126:この日の攻撃を「総攻撃」と考える立場からは、明治37年(1904年)9月19日の攻撃を「第2回総攻撃の前哨戦」と捉えます。
*127:二十八サンチ砲,二十八糎砲と記載されることもあります。
*128:堡塁を直撃しても堡塁そのものを破壊することはできませんでしたが,堡塁内のロシア兵を効果的に殺傷することができました。別宮[2006]192頁
*129:日本軍:死者1092名,負傷者2782名 ロシア軍:死者616名,負傷者4453名
*130:希典は,出撃する白襷隊の面々に対し,泣きながら握手し,「死んでくれ,死んでくれ」と声を掛けていきました。岡田[2001]130頁
*131:佐々木[2005]65頁以下参照
*132:長南[2015]533頁。他方,明治天皇の侍従であった日野西資博の回想として,明治天皇が乃木も,アー殺しては,どもならぬ
と述べられたという記録もあります。同書534頁参照
*133:長南[2015]534頁以下
*134:岡田[2001]119頁,佐々木[2005]64頁,半藤ら[2009]189頁参照
*135:陸軍省編『明治軍事史 下』1447~1448頁所収の「総参謀長派遣に関する訓令」には,「余は第三軍の攻撃指導に関し要すれば満州軍装司令官の名を以て第三軍に命令することを貴官に委す」との記載があり,満州軍装司令官・大山巌が,総参謀長である児玉に対し,第三軍の指揮権を委ねた旨が記載されています。しかし,その文頭には「本訓令は之を実施するに至らずして止む,12月13日総司令参謀長帰部の翌日総司令官に返納せらる」と朱書きされています。
*136:長南[2015]495頁~496頁。なお,岡田[2001]142頁は,増援隊については触れていません。
*137:司馬[1999b]102頁~104頁。ただし,『坂の上の雲』では,奈良ではなく,佐藤鋼二郎歩兵中佐と児玉とのやりとりということになっています。『坂の上の雲』のネタ本である谷寿夫『機密日露戦争史』では,奈良と児玉とのやり取りになっています。
*138:長南[2015]496頁~497頁
*139:司馬[1999b]92頁
*140:松下1960,176頁,松下[1960]151頁参照
*141:岡田[2001]121頁,佐々木[2005]69頁以下参照
*142:佐々木[2005]18頁参照
*143:別宮[2006]212頁
*144:別宮[2006]291頁
*145:別宮[2006]296頁
*147:岡田[2001]161頁参照
*148:岡田[2001]162頁
*149:岡田[2001]163頁以下参照
*150:岡田[2001]166頁,半藤ら[2009]192頁
*151:佐々木[2005]76頁以下
*152:佐々木[2005]160頁
*153:岡田[2001]170頁,佐々木[2005]71頁,434頁以下
*154:長南[2015]を底本として全面的に書き直しました。
*155:横手[2005]170頁
*156:岡田[2001]174頁,半藤ほか[2009]202頁(半藤発言)
*157:岡田[2001]175頁
*158:長南[2015]563頁以下。「中央突破」説の論拠となるのは参謀・津野田是重の回想録であるが,一参謀の私見に過ぎないとしています。同書563頁,568頁
*159:長南[2015]567頁
*160:岡田[2001]177頁
*161:別宮[2011]236頁
*162:岡田[2001]177頁,別宮2011,236頁
*163:長南[2015]567頁
*164:長南[2015]571頁
*165:長南[2015]571頁
*166:長南[2015]579頁
*167:長南[2015]579頁~589頁
*168:岡田[2001]178頁,別宮[2011]239頁
*169:長南[2015]584頁参照
*170:長南[2015]584頁~587頁
*171:長南[2015]586頁
*172:長南[2015]589頁
*173:長南[2015]590頁~591頁。なお,別宮[2011]239頁以下においては,第三軍は,併走する第2軍との間隔を空けないようにしてロシア軍による分断を防ぎながら,奉天を目指したとされています
*174:長南[2015]592頁
*175:長南[2015]593頁
*176:3月7日,総参謀長・児玉源太郎は,第三軍の働き次第で勝敗が決すると考え,第三軍参謀長・松永正敏に対し,「乃木に猛進を伝えよ。」と述べ,激怒した希典は司令部を最前線にまで突出させ,幕僚の説得を受けてようやく司令 部を元の位置に戻すという一幕があった,『機密日露戦争史』に記載され,人口に膾炙しています(学習研究社[1991]73頁以下など)。しかし,これと似た事件が起きたのは上述のとおり3月3日であり,誤りと考えられます。長南[2015]596頁参照。
*177:長南[2015]598頁
*178:別宮[2011]243頁
*179:長南[2015]600頁
*181:岡田[2001]183頁以下参照。
*182:岡田[2001]195頁参照。
*183:大濱[2010]163頁参照。
*184:佐々木[2005]20頁
*185:岡田[2001]96頁,中西[2010]39頁
*186:大濱[2010]166頁以下,佐々木[2005]14頁,18頁参照。
*187:佐々木[2005]22頁,28頁以下参照。
*188:佐々木[2005]32頁以下
*189:大濱[2010]179頁参照。
*190:佐々木[2005]76頁以下
*191:佐々木[2005]78頁以下
*192:佐々木[2005]435頁
*193:岡田[2001]209頁以下,佐々木[2005]38~39頁
*194:佐々木[2005]161頁参照
*195:「やまとなでしこ」は、当時、男性も含まれる表現でした。
*196:大濱2010,223頁以下
*197:佐々木[2005]105頁参照。
*198:佐々木2005,39頁
*199:岡田[2001]215頁以下,佐々木[2005]224頁参照。
*200:岡田[2001]217頁参照。
*201:大濱[2010]226頁
*202:岡田[2001]212頁以下,佐々木2005,393頁
*203:江戸時代前期の儒学者・軍学者である山鹿が寛文9年(1669年)に著しました。中華思想に染まった日本の風潮を批判し,長く絶えず続いてきた日本の皇室こそ貴ぶべきであり,中朝(中華)とは日本にこそ相応しいと説いた書物です。
*204:江戸時代中期の儒学者である三宅が天明4年(1784年)に著しました。いわゆる南朝正統を主張しつつも,後醍醐天皇に対しては批判的な書物です。
*205:岡田[2001]267~268頁
*206:岡田[2001]268頁
*207:大濱[2010]293頁,289頁以下,岡田[2001]269頁以下参照。
*208:大濱[2010]288頁,岡田[2001]268~269頁参照。
*209:大濱[2010]290頁参照。
*210:佐々木[2005]285頁以下
*211:佐々木[2005]287頁以下
*212:佐々木[2005]287頁参照。
*213:佐々木2005,251~252頁以下