乃木希典伝(11)―奉天会戦―
奉天会戦での活躍と凱旋*1
第三軍の任務
旅順における日本軍の勝利によって,国際世論は日本の勝利を確信するとともに,講和による戦争終結へと傾いていきました。
日露の仲介役を買って出ていたアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領にドイツ皇帝ヴィルヘルム二世も同調します*2。
しかしロシアは講和に乗り気でなく,日本もロシア軍殲滅のための決戦を求めていました。
希典は,旅順要塞攻略後,第三軍を率いて奉天会戦に参戦しました。
第三軍に与えられた役割は,西からロシア軍の左翼を攻め,その注意を引くことです。
日本軍右翼の鴨緑江軍と左翼の第三軍とが動いてロシア軍の注意を引き,その間に中央の第2軍・第4軍がロシア軍の中央を突破するという作戦です*3。
なお,希典は,第三軍を日本軍の中核とすべく,戦力増強を満州軍総司令部に要請しました。
しかし,満州軍総司令部の主任参謀・松川敏胤は,第三軍参謀・津野田是重に対し,
『第三軍には多くを期待していない。ただ敵を引きつけ,新民屯(奉天の西北)に籠もっていればいい。戦力の増強は不要。』
という趣旨の返答をしました*4。
旅順攻略によって一躍名を馳せた第三軍ですが,満州軍総司令部は,旅順攻囲戦における第三軍の働きを低く評価し,奉天会戦では「脇役」としたのです。
なお,長南政義氏は,奉天会戦における日本軍の作戦構想は「中央突破」ではなかったとしています*5。
長南氏によれば,満州軍総司令部は,側面・背面からロシア軍を攻撃するつもりでした。
第1軍がロシア軍左翼を攻め,第4軍がロシア軍正面からの攻撃を防御し,第三軍がロシア軍の右翼を「繞回」してロシア軍の退路を断つ動きを見せて退却を誘う。この第三軍の動きを受け,第2軍が主攻となってロシア軍の右翼を突破するというものです。
ここにいう「繞回」とは,迂回とは異なります。
繞回は,包囲を実施するために敵の側面・背面に向かって進軍することをいいます。
包囲とは,側面と正面から敵を圧倒する戦術です。
他方,迂回とは,敵陣地を直接攻撃せず,側面・背面に回り込んで陣地から敵軍を引きずり出し,陣地外での戦闘を強要する戦術をいいます*6。
第三軍が担った「繞回」とは,包囲殲滅戦を実現するための戦術だったのです。
正面突破か,包囲殲滅か,いずれの戦術であっても,第三軍の任務は主たる攻撃(主攻)を補助するための攻撃(助攻)でした。
そのため,第三軍は十分な戦力の増強もされないまま奉天会戦に突入します。
繞回――包囲殲滅――
明治38年(1905年)2月21日,日本軍右翼の鴨緑江軍が奉天会戦の口火を切り,続いて2月24日には鴨緑江軍と共に日本軍右翼を構成する第1軍が攻撃を開始しました*7。
これを受けてロシア軍は日本軍右翼に一定の戦力を振り向けましたが,その規模は大きくなく,日本軍が想定していたほどの陽動とはなりませんでした*8。
それでも,第三軍の行動開始を隠蔽することには成功しました*9。
2月27日,希典率いる第三軍は進軍を開始します。
第三軍の任務は,まず,大民屯(奉天の西方)に向かって進軍することでした*10。
満州軍総司令官・大山は,第三軍によって奉天会戦の死命を決するという程に第三軍の動きを重視していました。
しかし,総司令部から実際に発令された命令は,上述したとおり「繞回」であり,第三軍の任務は主攻なのか助攻なのか不明確でした。
参謀・津野田は「第三軍には多くを期待していない」と述べたとされますが,他の参謀・白井二郎や尾野実信は,「敵の右翼を包囲する第三軍に大なる期待」をもっていたと述べています*11。
従って,大山は,第三軍に助攻以上の役割を期待していたと思われます。
ところが,第三軍に与えられた任務は,単なる「繞回」であり,それによって奉天西方のロシア軍を退却させるというなものでした*12。
これは,第三軍によってロシア軍を牽制し,第2軍によって雌雄を決する,と解釈できます*13。つまり,上述した大山の意図と齟齬した任務であって,総司令部の「真意」が不明確になってしまいました。
このため,第三軍は,課せられた任務の目的を独自に解釈して進むしかありませんでした。
第三軍の猛進,総司令部に抑止さる
希典は,第三軍の目的は「大々的な繞回」であると解釈し,全滅してでも「繞回」を達成しようと,決死の覚悟で進軍を開始しました。進軍する先は,大民屯よりも東,奉天の北に位置する馬三家子でした*14。
当初,第三軍は順調に進撃します。
しかし,3月1日以降,進撃速度は鈍化しました。
満州軍総司令部は,第三軍に対し,第2軍による攻撃を援助するため,奉天西方の四方台を攻撃するよう命令したからです。
このとき,ロシア軍総司令官アレクセイ・クロパトキンは,第三軍の動きを察知し,第三軍が進軍する方面に対して第三軍の約2倍にあたる兵力を振り向けて対抗させました*15。
なお,同3月1日,満州軍総司令部は,第三軍の動きが遅いとみて「乃木軍ハ猛進セヨ」と命じたという話があります。
しかし,実際には,3月1日に繞回を中断したのは上述のとおり満州軍総司令部の命令に基づくものでり,この話は全くの創作です*16。
3月2日,第三軍は,満州軍総司令部から,第2軍を援護するようにとの命令を受けました。
しかし,第三軍は,同日夜,ロシア軍の退路を断つべく,独断専行によって奉天の西方からロシア軍の背後に迫りました*17。
このとき,第三軍司令部が前線に近づきすぎ,いったん後方に退くということがありました。
このことは,第三軍が総司令部の命令を受けるまでもなく,ロシア軍の退路を断つべく猛進しており,『第三軍の司令部は前線から離れたところに設置されがち』という批判に何ら根拠がないことを示しています*18。
3月3日,第三軍は進路に立ちはだかるロシア軍に攻撃を仕掛けようとしますが,総司令部から攻撃の一時中止を命じられます。
これによってロシア軍は体勢を立て直す時間を得ることになりました*19。
乃木の独断専行――露軍の退路遮断――
翌4日,希典は,戦局を左右する大きな決断をします。
ロシア軍は既に退却を始めているとの認識に基づき,馬三家子(奉天の北西)からロシア軍の退路を遮断する方向に進撃すべしとする総司令部の命令が現状にそぐわないと判断した第三軍は,独断専行によって東進し,東奉天停車場を目指したのです*20。
満州軍総司令部においては第三軍の決断に対する対処に関する議論が紛糾しましたが,結局,第三軍の独断専行を黙認して放置することとしました*21。
そして,3月5日,満州軍総司令部は,第三軍に対し,一部戦闘地域(楊士屯~後民屯)を第2軍に譲るよう命じ,第三軍にロシア軍の退路遮断を期待しました。
これを受けて,第三軍は,北方に転進しました。
結果論ですが,第三軍は当初の企図どおり退路遮断のために進撃を続けるべきでした。3月4日の独断専行は裏目に出てしまったことになります*22。
第三軍は,3月4日から7日にかけて,2~3倍するロシア軍を相手に奮戦しました。
3月7日*23・8日は,総司令部から攻撃を督促されました。
8日においては攻撃催促を各師団に伝えるため,希典自身が危険な前線に身をさらして各師団長との面談しようとするなど,勇猛果敢な姿勢を見せ,奉天会戦を戦い抜いたのです*24。
そして,ロシア軍は日本軍に対して効果的な損害を与えることができず,3月6日には撤退を決定。撤退を成功させるために,包囲を目論む第三軍を叩くこととしました*25。
こうして,希典率いる第三軍が奉天会戦においてにわかに重要性を増したのです。
3月7日,満州軍総司令部は,当初の予定どおり作戦が進捗しないことから右翼の第1軍にも進軍を命じてロシア軍の包囲を図りました。
この包囲における要は既に包囲に動いていた第三軍です。
3月8日,第三軍の奮戦ぶりを見たロシア軍総司令官クロパトキンは,その兵力を実際の2倍以上と誤信し,第三軍によって退路を断たれることを懸念して,優勢であった東部及び中央部のロシア軍を退却させました。
翌3月9日,第三軍に編入された後備歩兵第1旅団がロシア軍の攻撃によって潰走し,第1師団歩兵第2旅団も敗走を始めました。
この敗走は,津野田是重による機関銃薙射命令と第1師団長・飯田俊助の統率力による退却停止によって押しとどめられ,第1師団はなんとか持ち直しました*26。
ともかく,ロシア軍の退却によって形勢は一転して日本軍へと傾き,3月10日,日本軍は奉天を占領しました*27*28。
凱旋――自責の英雄――
奉天会戦によって消耗した日本軍は,それ以上北上してロシア軍を追撃する余力がありませんでした。
希典は,奉天の北方にある法庫門に駐留していた時に,日露戦争の休戦を迎えます。
休戦の知らせを聞いた希典は,日露戦争の講和交渉について,
戦争の長期化は日本に不利であるから講和すべきだが,賠償金はとれず,樺太全域の割譲も困難であろう。
と述べ,講和の内容をほぼ正確に予見しました*29。
希典は,明治38年(1905年)12月29日,法庫門を出発し,明治39年(1906年)1月14日,東京の新橋駅に凱旋しました*30。
希典は,日露戦争前から国民に知られた存在でしたが*31,日露戦争を通じて国民的な英雄となっていました。
第一の要因は,ロシア軍が
いかなる大敵が来ても3年は持ちこたえる。
と豪語した旅順要塞*32を陥落さた武功を讃える声でした。
第二の要因は,二人の子息を亡くしたことに対する国民の同情でした。
希典は他の将兵よりも盛大な歓迎を受け,新聞も,帰国する希典の一挙手一投足を詳細に報道しました*33。
国民は希典を盛大に歓迎しましたが,一方の希典は,数多くの将兵を戦死・負傷させた責任を感じ,
守備隊の司令官になって中国大陸に残りたい。
箕でも笠でもかぶって帰りたい。
と嘆いていました。
凱旋後に開催された各種歓迎会の招待を全て断ったのは*34,そうした希典の心情をよく表しています。
凱旋後,希典は,自筆の復命書を明治天皇の御前で涙ながらに奉読しました。
この復命書は,旅順攻囲戦が想定よりも長期間にわたり,多大な犠牲を生じたことを率直に認める内容でした。
復命書奉読後,希典は,明治天皇に対し,明治天皇の将兵を多数戦死させた贖罪のために自害したいと奏上しました。
しかし,明治天皇は,
「どうしても死ぬというのであれば,朕が世を去った後にせよ。」
と述べられて,希典を諫めたといわれます*35。
なお,希典は,凱旋にあたって以下の漢詩を詠んでいます。
「凱旋」という名誉ある場面にもかかわらず,多くの兵を失った哀しみに満ちた詩です。
皇師百萬征強虜(皇師百万?強虜を征す)
野戰攻城屍作山(野戦攻城?屍山を作 す)
愧我何顔看父老(愧 ず我何の顔 あって父老に看 えん)
凱歌今日幾人還(凱歌?今日?幾人か還る)
世界の"NOGI"
旅順攻囲戦は,日露戦争における最激戦でした。
よって,これに勝利した希典は,日露戦争を代表する将軍と評価されました*36。
また,武功だけでなく,水師営の会見におけるステッセルの処遇に代表される,降伏したロシア兵に対する寛大な取扱いについても,世界的な賞賛を受けました*37。
希典を讃える書簡は世界各国から寄せられました。
敵国ロシアの『ニーヴァ』誌ですら,希典を英雄的に描いた挿絵を掲載したほど国際的名声は高まりました。
さらに,「希典」や,希典が占領した「旅順」(アルツール)を子供の名前とする例が世界的に頻発しました*38。
世界各国の王室及び政府も希典を讃え,ドイツ帝国,フランス,チリ,ルーマニア及びイギリスの各国王室または政府は,希典に対して様々な勲章を授与しました*39。
日露戦争において,希典は武人としての面目を果たし,その後の栄達も約束されたかに思われました。
「学習院院長」に続く。
(1)から(13)まで通読したい場合には,「乃木希典伝(全)」へ。
参考文献
- 大濱徹也『乃木希典』(講談社<講談社学術文庫>,2010年)
- 岡田幹彦『乃木希典――高貴なる明治』(展転社,2001年)
- 桑原嶽『名将 乃木希典――司馬遼太郎の誤りを正す(第5版)』(中央乃木会,2005年)
- 桑原嶽『乃木希典と日露戦争の真実 司馬遼太郎の誤りを正す』(PHP研究所<PHP新書>,2016年)
- 小堀桂一郎『乃木将軍の御生涯とその精神――東京乃木神社御祭神九十年祭記念講演録』(国書刊行会,2003年)
- 佐々木英昭『乃木希典――予は諸君の子弟を殺したり――』(ミネルヴァ書房,2005年)
- 司馬遼太郎『坂の上の雲(4)(新装版)』(文藝春秋<文春文庫>,1999年a)
- 司馬遼太郎『坂の上の雲(5)(新装版)』(文藝春秋<文春文庫>,1999年b)
- 司馬遼太郎『殉死(新装版)』(文藝春秋<文春文庫>,2009年)
- 戸川幸夫『人間 乃木希典』(学陽書房,2000年)
- 徳見光三『長府藩報国隊史』(長門地方資料研究所,1966年)
- 中西輝政『乃木希典――日本人への警醒』(国書刊行会,2010年)
- 乃木神社・中央乃木會監修『いのち燃ゆ――乃木大将の生涯』(近代出版社,2009年)
- 半藤一利ほか『歴代陸軍大将全覧 明治篇』(中央公論新社<中公新書ラクレ>,2009年)
- 福田和也『乃木希典』(文藝春秋<文春文庫>,2007年)
- 長南政義『新資料による日露戦争陸戦史~覆される通説~』(並木書房,2015年)
- 別宮暖朗『旅順攻防戦の真実――乃木司令部は無能ではなかった』(PHP研究所<PHP文庫>,2006年)
- 別宮暖朗『日露戦争陸戦の研究』(筑摩書房<ちくま文庫>,2011年)
- 松下芳男『乃木希典(人物叢書 新装版)』(吉川弘文館,1985年)
- 柳生悦子『史話 まぼろしの陸軍兵学寮』(六興出版,1983年)
- 学習研究社編集『日露戦争――陸海軍,進撃と苦闘の五百日(歴史群像シリーズ24)』(学習研究社,1991年)
*1:長南[2015]を底本として全面的に書き直しました。
*2:横手[2005]170頁
*3:岡田[2001]174頁,半藤ほか[2009]202頁(半藤発言)
*4:岡田[2001]175頁
*5:長南[2015]563頁以下。「中央突破」説の論拠となるのは参謀・津野田是重の回想録であるが,一参謀の私見に過ぎないとしています。同書563頁,568頁
*6:長南[2015]567頁
*7:岡田[2001]177頁
*8:別宮[2011]236頁
*9:岡田[2001]177頁,別宮2011,236頁
*10:長南[2015]567頁
*11:長南[2015]571頁
*12:長南[2015]571頁
*13:長南[2015]579頁
*14:長南[2015]579頁~589頁
*15:岡田[2001]178頁,別宮[2011]239頁
*16:長南[2015]584頁参照
*17:長南[2015]584頁~587頁
*18:長南[2015]586頁
*19:長南[2015]589頁
*20:長南[2015]590頁~591頁。なお,別宮[2011]239頁以下においては,第三軍は,併走する第2軍との間隔を空けないようにしてロシア軍による分断を防ぎながら,奉天を目指したとされています
*21:長南[2015]592頁
*22:長南[2015]593頁
*23:3月7日,総参謀長・児玉源太郎は,第三軍の働き次第で勝敗が決すると考え,第三軍参謀長・松永正敏に対し,「乃木に猛進を伝えよ。」と述べ,激怒した希典は司令部を最前線にまで突出させ,幕僚の説得を受けてようやく司令 部を元の位置に戻すという一幕があった,『機密日露戦争史』に記載され,人口に膾炙しています(学習研究社[1991]73頁以下など)。しかし,これと似た事件が起きたのは上述のとおり3月3日であり,誤りと考えられます。長南[2015]596頁参照。
*24:長南[2015]598頁
*25:別宮[2011]243頁
*26:長南[2015]600頁
*28:岡田[2001]183頁以下参照。
*29:岡田[2001]195頁参照。
*30:大濱[2010]163頁参照。
*31:佐々木[2005]20頁
*32:岡田[2001]96頁,中西[2010]39頁
*33:大濱[2010]166頁以下,佐々木[2005]14頁,18頁参照。
*34:佐々木[2005]22頁,28頁以下参照。
*35:佐々木[2005]32頁以下
*36:大濱[2010]179頁参照。
*37:佐々木[2005]76頁以下
*38:佐々木[2005]78頁以下
*39:佐々木[2005]435頁