乃木希典伝(6)――豹変・人生の一大転機――
放蕩生活の中での結婚
西南戦争の後,希典の放蕩がより一層激しくなりました。
自宅にいるよりも料亭にいる時間の方が長いといわれるほどでした。
こうした希典の放蕩ぶりは「乃木の豪遊」として有名になりました*1。
そんな放蕩三昧の希典でしたが,明治11年(1878年)10月27日,お七と結婚しました。
希典の母が結婚をしきりに勧めても希典は乗り気でなく,冗談だったのか,
薩摩*2の女なら結婚しましょう。
と言ったところ,本当に薩摩の女性・お七との縁談を持ってこられて結婚した,という話もあります。
ともかく,希典はお七と結婚。新居を東京・虎ノ門(東京都港区虎ノ門1丁目22番地)に新居を構えました。
そして,この際,お七は静子と改名し,「乃木静子」となりました。
しかし,希典は,刻限になっても祝言の席に現れません。
風采優美な偉丈夫として花柳界に知られていた希典は,料理茶屋に入り浸って遅刻したのです。
前途多難な家庭生活を容易に予想させる船出でしたが,明治12年(1979年)8月28日には長男・乃木勝典が生まれました。
また,明治14年(1881年)12月16日には次男・乃木保典が生まれました*3。
しかし,希典の放蕩生活は続きました*4。
ドイツ留学
希典は,明治16年(1883年)2月5日,東京鎮台参謀長に任じられました。
さらに,明治18年(1885年)5月21日には少将に昇進して,歩兵第11旅団長となりました*5。 そして,希典は,明治20年(1887年)1月,日本政府の命により,川上操六とともにドイツ帝国へ留学することになり,明治21年(1888年)6月10日までドイツに滞在しました*6。
希典たちは,ドイツ軍参謀総長ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケから参謀大尉・デュフェーを紹介され,彼から『野外要務令』に基づく講義を受けました。
また,希典は,ベルリン近郊の近衛軍に属して,ドイツ陸軍の全貌について学びました*7。
なお,ドイツ留学中,希典は森鴎外とも親交を深めました。
その交友関係は,終生続くこととなります*8。
帰国後の豹変
帰国した希典は,帰国後,復命書を大山巌に提出しました。
復命書は,作成名義こそ川上と希典の連名になっていますが,帰国後に川上が病気になったため,希典がほぼ単独で作成しました。
この復命書は,厳正な軍紀を維持するための軍人教育の重要性を説くもので,軍服の重要性についても力説されていました*9。
また,『将校は現場の実務に就いて昇進していくべきである』という人事論も展開されていました*10。
ドイツの先進的な軍事理論を持ち帰ってくると期待していたであろう軍中央は,この復命書の内容に落胆したかも知れません。
少なくとも『よくやった。これからは,我が軍もこのとおりにいこう。』とはなりませんでした。
そんな他者の反応にはお構いなしに,帰国後の希典は,復命書に記載した理想的軍人を体現する人物に豹変しました*11。
まず,留学前は盛んに行っていた料理茶屋通いをぱったりと止め,芸妓が出る宴会には出席しないようになりました。
また,稗を食べるなど質素な生活に徹し,常に軍服を着用するようになりました*12。
希典は,このように豹変した理由を尋ねられても,
感ずるところあり。
と述べるだけで,詳しい理由を明かそうとはしなかったといいます*13。
?
希典の豹変にドイツ留学(又はその時期の出来事)が関わっていることは間違いないと思われますが,その真相は,もはや明らかにする術もありません。
「日清戦争での活躍」に続く。
(1)から(13)まで通読したい場合には,「乃木希典伝(全)」へ。
参考文献
- 大濱徹也『乃木希典』(講談社<講談社学術文庫>,2010年)
- 岡田幹彦『乃木希典――高貴なる明治』(展転社,2001年)
- 桑原嶽『名将 乃木希典――司馬遼太郎の誤りを正す(第5版)』(中央乃木会,2005年)
- 桑原嶽『乃木希典と日露戦争の真実 司馬遼太郎の誤りを正す』(PHP研究所<PHP新書>,2016年)
- 小堀桂一郎『乃木将軍の御生涯とその精神――東京乃木神社御祭神九十年祭記念講演録』(国書刊行会,2003年)
- 佐々木英昭『乃木希典――予は諸君の子弟を殺したり――』(ミネルヴァ書房,2005年)
- 司馬遼太郎『坂の上の雲(4)(新装版)』(文藝春秋<文春文庫>,1999年a)
- 司馬遼太郎『坂の上の雲(5)(新装版)』(文藝春秋<文春文庫>,1999年b)
- 司馬遼太郎『殉死(新装版)』(文藝春秋<文春文庫>,2009年)
- 戸川幸夫『人間 乃木希典』(学陽書房,2000年)
- 徳見光三『長府藩報国隊史』(長門地方資料研究所,1966年)
- 中西輝政『乃木希典――日本人への警醒』(国書刊行会,2010年)
- 乃木神社・中央乃木會監修『いのち燃ゆ――乃木大将の生涯』(近代出版社,2009年)
- 半藤一利ほか『歴代陸軍大将全覧 明治篇』(中央公論新社<中公新書ラクレ>,2009年)
- 福田和也『乃木希典』(文藝春秋<文春文庫>,2007年)
- 長南政義『新資料による日露戦争陸戦史~覆される通説~』(並木書房,2015年)
- 別宮暖朗『旅順攻防戦の真実――乃木司令部は無能ではなかった』(PHP研究所<PHP文庫>,2006年)
- 別宮暖朗『日露戦争陸戦の研究』(筑摩書房<ちくま文庫>,2011年)
- 松下芳男『乃木希典(人物叢書 新装版)』(吉川弘文館,1985年)
- 柳生悦子『史話 まぼろしの陸軍兵学寮』(六興出版,1983年)
- 学習研究社編集『日露戦争――陸海軍,進撃と苦闘の五百日(歴史群像シリーズ24)』(学習研究社,1991年)
*1:大濱[2010]89頁以下参照。
*2:希典の出身である長府藩と,その主家である長州藩のライバルであって,当時,薩摩と長州の結婚には相当な拒絶反応がありました。
*3:佐々木[2005]431頁
*4:佐々木[2005]89頁以下,122頁以下参照。
*5:佐々木2005,431頁
*6:佐々木[2005]431頁
*7:大濱[2010]104頁以下参照。
*8:大濱[2010]107頁参照。
*9:大濱[2010]108頁以下,福田[2007]102頁以下参照。
*10:岡田[2001]61頁参照
*11:大濱[2010]111頁以下参照。
*12:特に軍服の着用について,佐々木[2005]201頁以下参照。
*13:岡田[2001]65頁参照。
乃木希典伝(5)―連隊旗喪失―
西南戦争――連隊旗喪失――
連隊旗喪失
明治10年(1877年),西南戦争が勃発しました。
希典は,同年2月19日,第14連隊を率いて熊本城を救援すべく,まず久留米に入ります。
そして,熊本城へ向かい,明治10年2月22日,熊本城の北方にある植木(後の熊本市植木町)付近に達しました。
しかし,西郷軍が熊本城を既に包囲していたので,第14連隊は熊本城へ入城できず,植木において西郷軍との戦闘に入ることとなりました。
このとき,希典率いる第14連隊の将兵は200名ほどに過ぎませんでした。
強行軍のため,脱落者が出ていたのです。
対する西郷軍は,第14連隊に倍する400名ほどでした*1。
乃木率いる第14連隊は,数に劣るものの善戦し,3時間ほど持ちこたえましたが,午後9時ころ,退却を余儀なくされました。
この退却の際,連隊旗を管理していた河原林少尉が討たれ,連隊旗を西郷軍に奪われるという「事件」が起こります*2。
このことは,後の希典(あるいは日本陸軍全体)にとって,重大な問題となります。
さて,この時期,九州にいた官軍は,熊本城において包囲されていた熊本鎮台兵と,希典率いる第14連隊だけでした。
第14連隊は,後詰めの官軍主力が到着するまで,九州で孤軍奮闘していたのです。
第14連隊は,植木での戦闘から数日しか経っていない明治10年2月23日,木葉において西郷軍との戦闘に入りましたが,ここでも数で劣る第14連隊は,苦戦の末,南関まで退却しました。
第14連隊は,同月25日にも西郷軍と戦い,ここでは勝利を収めます。
このようにして,第14連隊は,官軍主力の到着まで戦線を支えました*3。
死地を求める希典
希典は,官軍の実質的な総指揮官であった山縣有朋に対し,明治10年4月17日付けで,連隊旗喪失に関する処分を求める待罪書を送付しました。
これに対し,山縣は,希典の「罪」を不問に付す旨の指令書を返信しました*4。
しかし,希典は納得せず,自害を図りました。
教導隊以来の付き合いである児玉源太郎は,自害しようとする希典から軍刀を奪い取って説得し,自害を思いとどまらせたといわれます*5。
その後,希典は,重傷を負って歩行が困難になっても「畚もっこ」に乗って指揮を執り,野戦病院に入院しても脱走して戦地に赴こうとしました。
希典は,このときの負傷によって,左足がやや不自由となりました*6。
明治10年(1877年)4月22日,希典は中佐に昇進し,熊本鎮台の参謀となり,前線を離れました。
希典が前線指揮官の職から外れたのは,死地を求めるような希典の行動を耳にした明治天皇が指示したためともいわれています*7。
「豹変」に続く。
(1)から(13)まで通読したい場合には,「乃木希典伝(全)」へ。
参考文献
- 大濱徹也『乃木希典』(講談社<講談社学術文庫>,2010年)
- 岡田幹彦『乃木希典――高貴なる明治』(展転社,2001年)
- 桑原嶽『名将 乃木希典――司馬遼太郎の誤りを正す(第5版)』(中央乃木会,2005年)
- 桑原嶽『乃木希典と日露戦争の真実 司馬遼太郎の誤りを正す』(PHP研究所<PHP新書>,2016年)
- 小堀桂一郎『乃木将軍の御生涯とその精神――東京乃木神社御祭神九十年祭記念講演録』(国書刊行会,2003年)
- 佐々木英昭『乃木希典――予は諸君の子弟を殺したり――』(ミネルヴァ書房,2005年)
- 司馬遼太郎『坂の上の雲(4)(新装版)』(文藝春秋<文春文庫>,1999年a)
- 司馬遼太郎『坂の上の雲(5)(新装版)』(文藝春秋<文春文庫>,1999年b)
- 司馬遼太郎『殉死(新装版)』(文藝春秋<文春文庫>,2009年)
- 戸川幸夫『人間 乃木希典』(学陽書房,2000年)
- 徳見光三『長府藩報国隊史』(長門地方資料研究所,1966年)
- 中西輝政『乃木希典――日本人への警醒』(国書刊行会,2010年)
- 乃木神社・中央乃木會監修『いのち燃ゆ――乃木大将の生涯』(近代出版社,2009年)
- 半藤一利ほか『歴代陸軍大将全覧 明治篇』(中央公論新社<中公新書ラクレ>,2009年)
- 福田和也『乃木希典』(文藝春秋<文春文庫>,2007年)
- 長南政義『新資料による日露戦争陸戦史~覆される通説~』(並木書房,2015年)
- 別宮暖朗『旅順攻防戦の真実――乃木司令部は無能ではなかった』(PHP研究所<PHP文庫>,2006年)
- 別宮暖朗『日露戦争陸戦の研究』(筑摩書房<ちくま文庫>,2011年)
- 松下芳男『乃木希典(人物叢書 新装版)』(吉川弘文館,1985年)
- 柳生悦子『史話 まぼろしの陸軍兵学寮』(六興出版,1983年)
- 学習研究社編集『日露戦争――陸海軍,進撃と苦闘の五百日(歴史群像シリーズ24)』(学習研究社,1991年)
乃木希典伝(4)―乃木「希典」の誕生と活躍―
乃木「希典」の誕生
改名「希典」
源三は,明治4年(1871年)12月,名を「希典」と改めました*1。
ここに,「乃木希典」が誕生したのです。
希典は,東京鎮台第三分営大弐心得*2及び名古屋鎮台大弐を歴任し*3,軍人として順調に歩み出しました。
しかし,明治7年(1873年)5月12日,希典は『家事上の理由』から辞表を提出して休職に入ります。
ところが,わずか4か月後の同年9月10日には陸軍卿伝令使*4として復職しました。
この休職と復職の真の理由は,はっきりとしません。
なお,陸軍卿伝令使となった時期の希典は,夜遊びが過ぎて山縣有朋から説諭を受けるほどでした*5。
秋月の乱を鎮圧
希典は,明治8年(1875年)12月,熊本鎮台歩兵第14連隊長心得に任じられ,小倉に赴任しました。
前任者の山田頴太郎は,後に萩の乱を起こす前原一誠の実弟でした。
前原一派に呼応して挙兵する可能性があったので,山田は連隊長を解任され,希典が後任にあたることとなったのです*6。
希典が連隊長心得に就任した後,希典の実弟である
玉木正諠は,前原一誠の一派に属しており,前原に同調するよう希典を勧誘しにきたのです
しかし,希典は勧誘には応じませんでした。
そして希典は,あくまで政府の軍人として,弟の件を含め,山縣有朋に前原一派の動静を報告しました*8。
翌明治9年(1876年),宮崎車之助らによる秋月の乱が勃発します。
西南戦争へと続いていく不平士族の反乱がついに始まりました。
希典は,他の反乱士族との合流を目論む宮崎らの動向を察知しました。
そこで,連隊を分け,豊津において宮崎らを挟撃し,反乱軍を潰走させました*9。
師・玉木の死
このとき,希典は,自らが率いる第14連隊を特に動かしませんでした。
萩の乱はほどなく鎮圧されましたが,実弟・玉木正諠は反乱軍に与して戦死し,学問の師である玉木文之進は,自らの門弟の多くが萩の乱に参加したことに対する責任をとって自害しました*10。
萩の乱の後,陸軍大佐・福原和勝は,希典に書簡を送り,秋月の乱における豊津での戦闘以外に戦闘を行わず,大阪鎮台に援軍を要請した希典の行為を非難しました*11。
これに対して希典は,福原に返書を送り,小倉でも反乱の気配があったことなどから連隊を動かさなかったことは正当であると説明しました。
この説明に,福原も納得したようです*12。
「西南戦争――連隊旗喪失――」に続く。
(1)から(13)まで通読したい場合には,「乃木希典伝(全)」へ。
参考文献
- 大濱徹也『乃木希典』(講談社<講談社学術文庫>,2010年)
- 岡田幹彦『乃木希典――高貴なる明治』(展転社,2001年)
- 桑原嶽『名将 乃木希典――司馬遼太郎の誤りを正す(第5版)』(中央乃木会,2005年)
- 桑原嶽『乃木希典と日露戦争の真実 司馬遼太郎の誤りを正す』(PHP研究所<PHP新書>,2016年)
- 小堀桂一郎『乃木将軍の御生涯とその精神――東京乃木神社御祭神九十年祭記念講演録』(国書刊行会,2003年)
- 佐々木英昭『乃木希典――予は諸君の子弟を殺したり――』(ミネルヴァ書房,2005年)
- 司馬遼太郎『坂の上の雲(4)(新装版)』(文藝春秋<文春文庫>,1999年a)
- 司馬遼太郎『坂の上の雲(5)(新装版)』(文藝春秋<文春文庫>,1999年b)
- 司馬遼太郎『殉死(新装版)』(文藝春秋<文春文庫>,2009年)
- 戸川幸夫『人間 乃木希典』(学陽書房,2000年)
- 徳見光三『長府藩報国隊史』(長門地方資料研究所,1966年)
- 中西輝政『乃木希典――日本人への警醒』(国書刊行会,2010年)
- 乃木神社・中央乃木會監修『いのち燃ゆ――乃木大将の生涯』(近代出版社,2009年)
- 半藤一利ほか『歴代陸軍大将全覧 明治篇』(中央公論新社<中公新書ラクレ>,2009年)
- 福田和也『乃木希典』(文藝春秋<文春文庫>,2007年)
- 長南政義『新資料による日露戦争陸戦史~覆される通説~』(並木書房,2015年)
- 別宮暖朗『旅順攻防戦の真実――乃木司令部は無能ではなかった』(PHP研究所<PHP文庫>,2006年)
- 別宮暖朗『日露戦争陸戦の研究』(筑摩書房<ちくま文庫>,2011年)
- 松下芳男『乃木希典(人物叢書 新装版)』(吉川弘文館,1985年)
- 柳生悦子『史話 まぼろしの陸軍兵学寮』(六興出版,1983年)
- 学習研究社編集『日露戦争――陸海軍,進撃と苦闘の五百日(歴史群像シリーズ24)』(学習研究社,1991年)
*1:佐々木[2005]431頁
*2:「心得」とは,下級者が上級職を務める際に用いられた役職名。大濱[2010]38頁
*3:大濱[2010]38頁以下,佐々木[2005]431頁
*5:大濱[2010]39頁以下
*6:大濱[2010]48頁以下,佐々木[2005]125頁以下
*8:大濱[2010]54頁,佐々木[2005]125頁以下
*9:福田[2007]74頁以下
*10:福田[2007]76頁,中西[2010]16頁
*11:この書簡は,福原の上官である山縣有朋が書かせたものといわれます。福田[2008]19頁
*12:大濱[2010]71頁以下参照。福田[2007]77頁以下は,福原の書簡の内容が一方的であるとして希典を擁護しています。
乃木希典伝(3)―軍人として―
軍人として
報国隊の結成と四境戦争への従軍
源三は,元治2年(1864年),集童場時代の友人らと盟約状を交わし,長府藩の青年武士たちが結成を目論んでいた戦闘部隊への参加を誓いました*1。
この戦闘部隊が,「長府藩報国隊」です。
報国隊は,青年武士や源三たち集童場の生徒らを中核とし、元治元年(1864年)2月14日,彼らの自主的な団結を長府藩が容認する形で結成され,以後,戊辰戦争を戦っていくことになります*2。
慶応元年(1865年),四境戦争(第二次長州征伐)が始まります。
源三は,同年4月,萩から長府へ呼び戻されました。
源三は,自ら参加を誓った長府藩報国隊に属し,山砲一門を受け持つ部隊を率いて小倉口の戦闘に加わり,奇兵隊の山縣有朋指揮下において戦いました。
この際,源三は,小倉城一番乗りの武功を挙げたといわれます*3。
四境戦争参戦後の慶応2年(1866年),源三は,長府藩の命に従って明倫館文学寮に復学しました。
復学したといっても,再び報国隊に所属して戦地に赴くことが予想されていました。
しかし,復学した源三は,講堂で相撲を取った際,左足を挫いてしまいました。
そのため,越後方面へと転戦した報国隊に加わることができなかったのです*4。
源三は,慶応4年(1868)1月,報国隊の漢学助教となりました。
他方,このころの報国隊は,越後方面での激戦を経て実戦経験豊富な戦闘部隊となり,隊士たちは各地を転戦して一体感を強めていました。
そうした報国隊の隊士たちは,戦争に参加しなかった源三を見下し,まともに教えを請おうとはしませんでした。
源三は,屈辱に耐えかねたのか,漢学助教の職を辞して上京しました*5。
迷走――将来への不安――
上京した源三は,従兄弟であり報国隊隊長であった御堀耕助を訪ね,御堀の従者としてでもよいからヨーロッパへ留学させて欲しいと 懇願しました。
洋行(海外留学)し,あくまで学問の道で身を立てようとしていたのでしょう。
しかし,御堀は,従者になってでも留学したいという源三の考えを卑屈であると非難しました。
その上で御堀は,留学したいのであれば自力で達成するよう述べるとともに,これからは武力が必要となる時代であるから軍人になるよう源三に勧めました。
この御堀の忠告によって,源三は軍人になることを決意しました*6。
源三は,慶応4年(1868年)11月,藩命によって伏見御親兵兵営に入営し,山内長人からフランス式訓練法を学びました*7*8。
この藩命は,御堀が周旋したものとみられています*9
なお,同時期、京都二条の仏式伝習所には,後に日露戦争でともに戦うこととなる児玉源太郎がいました。
源三は,明治3年(1870年)1月,山口藩で起こった反乱鎮圧のため一時帰藩した後,2月に帰営し,訓練に励みました。
その後、各兵営で訓練を受けた源三たちは「教導隊」と命名され、大阪城内玉造に新築された宿舎に移りました。
京都二条で訓練を受けた児玉たちは「第一教導隊」,伏見で訓練を受けた源三たちは「第二教導隊」とされました*10。
ところが,明治3年4月,源三は除隊を望むようになります。
「教導隊出身者は下士官にしかなれない」
という噂が飛び交ったからです。
果たして噂は本当で,明治3年4月3日に布告された「兵学令」において,教導隊が下士官養成を目的とすることが明確化されました*11。
源三は,教導隊を除隊して沼津兵学校へ移ることを希望しますが,除隊の許可が下りず*12,引き続き教導隊に所属し,明治3年7月には京都河東御親兵練武掛となりました。
明治3年6月以降,教導隊の隊員たちは教導隊を次々と卒業していきました。
児玉源太郎は六等下士官になるなど,卒業した隊員たちは次々と任官しました。
他方,源三は任官しないまま,12月23日,藩命により帰藩し,明治4年(1871年)1月10日,豊浦藩(旧・長府藩)の陸軍練兵教官となり,御親兵や鎮台兵の訓練にあたりました*13。
陸軍少佐に任官
やや不遇な境遇にあった源三ですが,転機が訪れます。
明治4年(1971年)11月23日,源三は,陸軍少佐に任官して,東京鎮台第二分営に配属されたのです*14。
弱冠22歳の源三が少佐に任官したことは異例でした。
この大抜擢は,源三が御堀耕助を通じて黒田清隆と知り合ったことが関係しているといわれます。
源三は,少佐任官を大変喜びました。
後に源三(乃木希典)は,少佐任官の日を回想して,「わしの生涯で何より愉快 じゃったのはこの日じゃ」と述べたほどです*15。
なお,源三は,このころから豪酒豪遊するようになり,放蕩生活が始まります*16。
「乃木『希典』の誕生」に続く。
(1)から(13)まで通読したい場合には,「乃木希典伝(全)」へ。
参考文献
- 大濱徹也『乃木希典』(講談社<講談社学術文庫>,2010年)
- 岡田幹彦『乃木希典――高貴なる明治』(展転社,2001年)
- 桑原嶽『名将 乃木希典――司馬遼太郎の誤りを正す(第5版)』(中央乃木会,2005年)
- 桑原嶽『乃木希典と日露戦争の真実 司馬遼太郎の誤りを正す』(PHP研究所<PHP新書>,2016年)
- 小堀桂一郎『乃木将軍の御生涯とその精神――東京乃木神社御祭神九十年祭記念講演録』(国書刊行会,2003年)
- 佐々木英昭『乃木希典――予は諸君の子弟を殺したり――』(ミネルヴァ書房,2005年)
- 司馬遼太郎『坂の上の雲(4)(新装版)』(文藝春秋<文春文庫>,1999年a)
- 司馬遼太郎『坂の上の雲(5)(新装版)』(文藝春秋<文春文庫>,1999年b)
- 司馬遼太郎『殉死(新装版)』(文藝春秋<文春文庫>,2009年)
- 戸川幸夫『人間 乃木希典』(学陽書房,2000年)
- 徳見光三『長府藩報国隊史』(長門地方資料研究所,1966年)
- 中西輝政『乃木希典――日本人への警醒』(国書刊行会,2010年)
- 乃木神社・中央乃木會監修『いのち燃ゆ――乃木大将の生涯』(近代出版社,2009年)
- 半藤一利ほか『歴代陸軍大将全覧 明治篇』(中央公論新社<中公新書ラクレ>,2009年)
- 福田和也『乃木希典』(文藝春秋<文春文庫>,2007年)
- 長南政義『新資料による日露戦争陸戦史~覆される通説~』(並木書房,2015年)
- 別宮暖朗『旅順攻防戦の真実――乃木司令部は無能ではなかった』(PHP研究所<PHP文庫>,2006年)
- 別宮暖朗『日露戦争陸戦の研究』(筑摩書房<ちくま文庫>,2011年)
- 松下芳男『乃木希典(人物叢書 新装版)』(吉川弘文館,1985年)
- 柳生悦子『史話 まぼろしの陸軍兵学寮』(六興出版,1983年)
- 学習研究社編集『日露戦争――陸海軍,進撃と苦闘の五百日(歴史群像シリーズ24)』(学習研究社,1991年)
*1:佐々木[2005]123頁
*2:徳見[1966]67頁以下
*3:中西[2010]13頁
*4:大濱[2010]33頁,半藤ら[2009]176頁
*5:岡田[2001]26頁
*6:岡田[2001],26~27頁
*7:大濱[2010]34頁
*8:柳生[1983]208頁
*9:福田[2007]63頁以下
*10:柳生209頁
*11:柳生[1983]212頁
*12:柳生[1983]212頁
*13:大濱[2010]35頁以下,佐々木[2005]430頁
*14:大濱[2010]36頁以下
*15:岡田[2001]27頁,大濱[2010]39頁,福田[2007]66頁
*16:岡田[2001]28頁
乃木希典伝(2)―学問の道へ―
目次
学問の道へ
学者を志す。
無人は,文久2年(1862年)12月,元服して名を「源三」と改めました。
それから2年経った1864年(元治元年)3月,源三は一大決心をします。
武士としてではなく,学者として身を立てることを決心したのです。
源三は,その決意を父・希次に打ち明けました。
すると,源三の告白に対して,希次は猛烈に反対しました*1。
これに対して,源三は思い切った行動に出ました。
玉木文之進へ弟子入りするため,家出をしたのです。
出奔して玉木家へ
玉木文之進は,松下村塾の創設者です。
吉田松陰の叔父であり,師匠でもあります。
そして,玉木家は乃木家の分家であり,玉木文之進と希次とは友人でした。
そこで源三は,縁故を頼って玉木文之進へ弟子入りすることを決意し,希次の承諾はもちろん,玉木の同意も得ないまま,長府(現在の下関市)から玉木が住む萩へ押しかけたのです。
しかし,玉木は,源三が父・希次の許しを得ることなく出奔したことを責めました。
さらに,玉木は,「武士にならないのであれば農民になれ」と言い,源三の弟子入りを拒否しました。
学者の夢を否定された源三は落胆しました。
しかし,玉木の妻の取りなしで玉木家に住み込むことを許され,農作業を手伝うこととなりました*2。
そのうちに源三は,次第に学問の手ほどきを受けることを許されるようになりました*3。
明倫館文学寮に入学
源三は,1865年(慶応元年),長州藩の藩校である明倫館の文学寮に入学しました。
念願の学者への道が開けたことになります。
その一方で,源三は,同年11月から一刀流剣術も学び始め,後に目録を伝授されました*4。
「軍人として」に続く。
(1)から(13)まで通読したい場合には,「乃木希典伝(全)」へ。
参考文献
- 大濱徹也『乃木希典』(講談社<講談社学術文庫>,2010年)
- 岡田幹彦『乃木希典――高貴なる明治』(展転社,2001年)
- 桑原嶽『名将 乃木希典――司馬遼太郎の誤りを正す(第5版)』(中央乃木会,2005年)
- 桑原嶽『乃木希典と日露戦争の真実 司馬遼太郎の誤りを正す』(PHP研究所<PHP新書>,2016年)
- 小堀桂一郎『乃木将軍の御生涯とその精神――東京乃木神社御祭神九十年祭記念講演録』(国書刊行会,2003年)
- 佐々木英昭『乃木希典――予は諸君の子弟を殺したり――』(ミネルヴァ書房,2005年)
- 司馬遼太郎『坂の上の雲(4)(新装版)』(文藝春秋<文春文庫>,1999年a)
- 司馬遼太郎『坂の上の雲(5)(新装版)』(文藝春秋<文春文庫>,1999年b)
- 司馬遼太郎『殉死(新装版)』(文藝春秋<文春文庫>,2009年)
- 戸川幸夫『人間 乃木希典』(学陽書房,2000年)
- 徳見光三『長府藩報国隊史』(長門地方資料研究所,1966年)
- 中西輝政『乃木希典――日本人への警醒』(国書刊行会,2010年)
- 乃木神社・中央乃木會監修『いのち燃ゆ――乃木大将の生涯』(近代出版社,2009年)
- 半藤一利ほか『歴代陸軍大将全覧 明治篇』(中央公論新社<中公新書ラクレ>,2009年)
- 福田和也『乃木希典』(文藝春秋<文春文庫>,2007年)
- 長南政義『新資料による日露戦争陸戦史~覆される通説~』(並木書房,2015年)
- 別宮暖朗『旅順攻防戦の真実――乃木司令部は無能ではなかった』(PHP研究所<PHP文庫>,2006年)
- 別宮暖朗『日露戦争陸戦の研究』(筑摩書房<ちくま文庫>,2011年)
- 松下芳男『乃木希典(人物叢書 新装版)』(吉川弘文館,1985年)
- 柳生悦子『史話 まぼろしの陸軍兵学寮』(六興出版,1983年)
- 学習研究社編集『日露戦争――陸海軍,進撃と苦闘の五百日(歴史群像シリーズ24)』(学習研究社,1991年)
*1:希次が激しく反対した理由には,乃木家の由来が大きくかかわっていると思われます。希次が武芸を磨き,それが藩主の目にとまったため,本来は医者の家である乃木家の希次が武士に取り立てられたという経緯です。こうした経緯から,希次は,生粋の武家以上に「武士」に対するこだわりがあったと思われます。そうした「武士」へのこだわりが,学者を目指そうとする源三への猛反対に繋がったのではないでしょうか。なお,生粋の武士以上に武士らしくありたいという姿は,新選組にも見られます。
*2:希典は,帝国陸軍に属した後,休職を繰り返し,その都度,那須野の別邸に起居して農作業にいそしみました。その姿は「農人・乃木」と言われましたが,その原点は玉木家での農作業にあるのかも知れません。
*3:大濱[2010]25頁以下,福田[2007]50頁以下参照。
*4:大濱[2010]40頁,佐々木[2005]122頁以下参照。
乃木希典伝(1)―幼少期―
目次
幼少期
生い立ち
父は
江戸詰の長府藩士(馬廻り)で,石高は80石(後に150石に加増)*1でした。
乃木家は元来、医者の家系でした。
武芸を磨く希次がの姿が藩主の目にとまり、武士として取り立てられたのです。
そのため,希次は,周囲よりも武士らしくあることを自らに要求しました。
母は
幼名「無人」
希典の幼名は
この名前には,「無人」という縁起の悪い名前をつけ,かえって健康に成長するように,という願いが込められています*3。
乃木家の長男及び次男は夭折しており、世継がいませんでした。
こうした願いは、当時の武士の家にとっては切実なものだったのです。
上述のように,希次は江戸詰の藩士でした。
よって,無人は10歳まで江戸(長府藩上屋敷)で生活しました。
この屋敷は,かつて赤穂浪士の一人である武林隆重(武林唯七)ら10名が切腹するまでの間預けられた場所でした*4。
そうした縁から,希次は,無人に赤穂浪士の話をしばしば聞かせました。
これが、後の「乃木希典」の「武士道」の原点になったと思われます。
厳しい教育
無人は虚弱体質であり,臆病でした。
希次は、こうした希典に忸怩たる思いを抱いたのか、無人をあえて厳しく養育しました。
例えば,寒いと不平を言った希典に「寒いなら,暖かくなるようにしてやる。」と言って,井戸端で冷水をに浴びせかけるといった具合です*5*6。
長府へ下向・研鑽の日々
希次は,安政5年(1858年)11月,長府への下向並びに閉門及び減俸を命じられました。
希次が藩主の跡目相続に関して建白し,藩主の不興を買ったことが原因でした。
乃木一家は,同年12月,長府へ転居しました*7。
無人は,安政6年(1859年)4月,結城香崖に入門して,漢籍及び詩文を学びました。
また,万延元年(1860年)1月からは,流鏑馬,弓術,西洋流砲術,槍術及び剣術なども学び始め,文久2年(1862年)6月20日からは,集童場に入学して勉学に励みました。
このように、知識・教養を蓄えるのみならず、武芸にも研鑽した無人でしたが、依然として臆病・泣き虫で,妹にいじめられて泣くこともありました。
友人たちは、そうしたこうした無人に対し「無人はマコトに泣き人」と言ってからかいました*8。
「学問の道へ」に続く。
(1)から(13)まで通読したい場合には,「乃木希典伝(全)」へ。
参考文献
- 大濱徹也『乃木希典』(講談社<講談社学術文庫>,2010年)
- 岡田幹彦『乃木希典――高貴なる明治』(展転社,2001年)
- 桑原嶽『名将 乃木希典――司馬遼太郎の誤りを正す(第5版)』(中央乃木会,2005年)
- 桑原嶽『乃木希典と日露戦争の真実 司馬遼太郎の誤りを正す』(PHP研究所<PHP新書>,2016年)
- 小堀桂一郎『乃木将軍の御生涯とその精神――東京乃木神社御祭神九十年祭記念講演録』(国書刊行会,2003年)
- 佐々木英昭『乃木希典――予は諸君の子弟を殺したり――』(ミネルヴァ書房,2005年)
- 司馬遼太郎『坂の上の雲(4)(新装版)』(文藝春秋<文春文庫>,1999年a)
- 司馬遼太郎『坂の上の雲(5)(新装版)』(文藝春秋<文春文庫>,1999年b)
- 司馬遼太郎『殉死(新装版)』(文藝春秋<文春文庫>,2009年)
- 戸川幸夫『人間 乃木希典』(学陽書房,2000年)
- 徳見光三『長府藩報国隊史』(長門地方資料研究所,1966年)
- 中西輝政『乃木希典――日本人への警醒』(国書刊行会,2010年)
- 乃木神社・中央乃木會監修『いのち燃ゆ――乃木大将の生涯』(近代出版社,2009年)
- 半藤一利ほか『歴代陸軍大将全覧 明治篇』(中央公論新社<中公新書ラクレ>,2009年)
- 福田和也『乃木希典』(文藝春秋<文春文庫>,2007年)
- 長南政義『新資料による日露戦争陸戦史~覆される通説~』(並木書房,2015年)
- 別宮暖朗『旅順攻防戦の真実――乃木司令部は無能ではなかった』(PHP研究所<PHP文庫>,2006年)
- 別宮暖朗『日露戦争陸戦の研究』(筑摩書房<ちくま文庫>,2011年)
- 松下芳男『乃木希典(人物叢書 新装版)』(吉川弘文館,1985年)
- 柳生悦子『史話 まぼろしの陸軍兵学寮』(六興出版,1983年)
- 学習研究社編集『日露戦争――陸海軍,進撃と苦闘の五百日(歴史群像シリーズ24)』(学習研究社,1991年)
*1:戸川[2000]8頁参照
*2:「壽子」ではなく「壽」であるとする文献もあります。佐々木[2005]40頁
*3:佐々木40頁[2005]
*4:佐々木[2005]41頁
*5:佐々木[2005]45~46頁参照。なお,現代の価値観から言えば,希次の行動は児童虐待でしょう。しかし,この逸話を現代の価値観に基づいて否定することも,現代の価値観を無視して現代に応用することも,いずれも無意味であり有害であると考えます。
*6:この逸話は昭和初期における「修身」の国定教科書にも掲載されるなどしており,かつては知らぬ者のない有名な話でした。佐々木[2005]45~46頁参照。
*7:佐々木[2005]44頁
*8:佐々木[2005]44頁
「乃木希典 入門」について
主なエントリ
乃木希典伝
乃木希典の伝記です。
「乃木希典伝」(1)から(13)までをまとめて,加筆・修正したものです。
- 乃木希典伝(1)ー幼少期ー
- 乃木希典伝(2)ー学問への道ー
- 乃木希典伝(3)ー軍人としてー
- 乃木希典伝(4)ー乃木「希典」の誕生と活躍ー
- 乃木希典伝(5)―連隊旗喪失―
- 乃木希典伝(6)―豹変―
- 乃木希典伝(7)―休職から日清戦争へ―
- 乃木希典伝(8)―台湾総督・四度目の休職―
- 乃木希典伝(9)―日露戦争へ―
- 乃木希典伝(10)―旅順攻囲戦―
- 乃木希典伝(11)―奉天会戦―
- 乃木希典伝(12)―学習院院長―
- 乃木希典伝(13)―殉死と世間の反応―
乃木希典評
乃木希典に対する私の評価です。
乃木希典に対する本ブログのスタンス
私は乃木希典の生き方が好きです。
ですので,乃木希典に対する評価は好意的になりがちであると思います。
ただし,できる限り多くの文献にあたり,様々な観点を示せるようにしたいと思っています(「政治的公平」などあり得ないと考えています。)。
コメントなどの扱い
言葉遣いの悪い人は,とりあえず無視します。
私は研究者でも,著名人でもないので,論破したいだけの人はお帰り下さい。